この海に居ること

人生ゲームの消化試合

死はエンターテイメント

フィクションに触れる時、そこには多くの登場人物の死が存在する。人が死ぬ作品は、結構ある。多くの人にとって、登場人物の死は衝撃的であったり、あるいは感動的であったりする。しかし、いつからか僕は登場人物が死ぬ時、その周囲の人間の心情を考えるようになってしまった。そうやってみると、意外と親しい人間の死を短期間で割り切ったり、すぐに処理(いい意味で)している描写は結構ある。

 

人はどうしても自分が感じる感情を他人も同様に感じると考えがちなので、人の死が演出される作品に対して勝手に違和感を抱くことが多い。するとどうなるかというと、楽しめる作品が減ってしまい、楽しいと感じるものが減り結果的に幸せな感情からは遠ざかっていく。でも、「いやいや立ち直るの早すぎでしょ」とか「簡単に人死にすぎでしょ(戦争モノじゃなかったりするのに)」とか思ってしまうのである。

 

ウルトラマンネクサスでは、主人公孤門の付き合って半年ほどとなる恋人が殺されてしまうのだが(交際時生死はさておき)、悲しんではいるけど立ち直るの早いな、とはちょっと思ってしまった。特に後半で溝呂木と再会した時に、孤門は「お前を殺してもリコは戻らない」と言うのだが、確かにそれはそうなんだけど、それを完全に自分の中で処理して納得できる状態にするのってすごく時間がかかりそうな気がするんだよな。

 

Zガンダムだと、アムロララァの死を受け入れるのに7年かかった上それは地獄のような日々だっただろうと言うシーンがある。ララァアムロの恋人ではないが、ニュータイプどうしで交わした心の交流があり、それは他の人間と交わす交流とは大きく異なりアムロにとって特別だったということになる。現実の死別経験者も、7年経てば受け入れられる人も出てくるだろうが、悲しみに慣れただけで愛する者の死を受け入れられないという人もおそらく存在するだろう。それぐらい、大切な人を失うというのは、遺された人間にとってはとても苦しい時間をもたらすものなのである。

 

二度と戻ってこないから、あるいは死んだ人間の分まで頑張ると自らを奮起させる描写も漫画やアニメで見受けられるが、目の前で恋人であれ友人であれ恩人であれ大切な人を失うということはそうそう手に負える事態ではないと思う。Zガンダムを見てて、フォウを失ったカミーユが敵が来ているのにその場から動けなくなったのもいい描写だったと思うし、いろんな人を失う中でそういう苦しい感情を押し退けて戦闘を続けた結果あの最終回になるのなら、自然な終わり方だとも思う。それくらいの代償が必要なのだとも思う。

 

殺人事件系フィクションも見るのがキツい。毎回いろんな方法で人が死ぬ。それらを見てしまった人は、もし死別経験者であれば自分の経験した死別との共通点を無意識に見つけてしまうだろうし、また死についてその人固有の考えに思いを巡らせることだろう。そういう状態辛いに決まっている。ただ、辛いから辛さから逃げるために全てを忘れようとするのもさせるのも違う。

 

自分の知っている「死に方」が作品内でどういう扱い方をされるにせよ、そういうので傷付く人も一定数居ると思う。嫌なら見るな、で片付けられるほど単純ではない。なぜならフィクション内の死を特に何も感じず見られる人でも、いつかは誰かと死別経験をし、同じように耐えられなくなる可能性だって十分あるからだ。人は誰でも必ず死ぬ。どんなに仲の良い人でも、どんなに心を通わせた人でも、いずれは死んでいく。

 

この世界では、自分の身近な人が死ぬ経験というのは基本的に若いうちはあまり起こらない。身近であってもその人とそんなに親しくなかったりする場合もある。しかし、ニュースでよく流れるようにこの世界はいろんな死で満ち溢れている。そしてその分の悲しみが存在している。多くは目に見えないだけで。まるで自分死と無関係なように思っている人もいるかもしれない。あるいは死について特に考えていない人の方が圧倒的多数だろう。でも一度、死を身近に経験してしまった時、世界は一変すると思う。自分とは無関係なところにある(と思い込んでいる)死をエンターテイメントとしている作品を見た時、どうしてもやるせない気持ちになる。もうコナンは見られない。

【ポケモンGO】GOバトルリーグ 負け続きでやっぱりムカつく

5連敗した。ムカつく。本当に対戦ゲームでムカつく。ゲームでイライラするなんてバカらしいけどそれでもムカついてしまう。

 

先日のアップデートで負けたら1勝するまでそのセットが終わらない仕組みに変わったけど、負け続けてようやく得る1勝というのはそんなに嬉しさがない。しかも5連敗以上するとレートめちゃ下がるし…。前回の記事で勝率は収束するらしいというのを書いたけど、長い目で見れば負けが重なる時もある、というのはわからなくはないけど、負けてる時ってやっぱりつまらない。1セットあたりの勝利数が1勝や2勝で負け越したセットが続くと本当につまらない。勝てたからいいじゃん、というのは慰めにならない。なぜなら勝ち越したいし出来るだけ勝率を上げたいから、負け越しによりレートが下がるのは許せないことなのだ。負け続きの時に限って流行りの対策ポケモン裏目に出るし、圧倒的出し負け交代後即相手も有利ポケモンに交換して、「あ、これ勝ち目ねーな」ってなる瞬間が続く。積み重なると「しゃーない、次行くか」よりも「なんでこんな負けばっか続くんだよムカつくしつまんねーな」ってなる。

 

ゲームごときでイライラするなんて子供じみているかもしれないが、世の中子供じみている大人ばっかりだし歳取っただけの子供なんかいくらでもいるから多分自分もそのうちだろう。大人が子供を説教するなんてバカバカしくて見てらんないね。

 

バグによる負けってのをあまり経験したことないので勝ち確定でバグ負けする人が怒る理由はあまり共感はできない。定番パーティ使えば勝てる可能性も上がるとは思うけど、魅力を感じる定番ポケモンは少ないので、どうしても「微妙な」ポケモンばかり使ってしまう。でもそれでも勝てる時もあるから、続けたくなってしまう。ギャンブルってこんな感じなんだな。形としては何も残らないのに、感情だけが激しく消費されていく。

 

YouTuberがマイナーポケモンを使う動画はとても面白いのだが、いつも思うのは3匹中1匹がマイナーポケモンでその脇を固めるのは定番ポケモンだ。つまり、マイナーポケモンは定番の強ポケモンにバックを固めて貰わなければ活躍しづらいということなのだ。強いポケモンも弱いポケモンも使う人の勝手ではなく事実として存在する。

 

もっと気軽にいろんなポケモンでバトルを楽しみたいのに、結局負け続けで嫌になる。楽に勝ちたい。多少の努力でそこそこの成果をあげたい。苦しい思いなんてしない方がいいに決まってる。何もいいことはない。苦しい経験をした分強くなれるわけなんてない。努力は報われないことの方が多い。信じる者も救われるとは限らない。

 

レートとかいう目に見える数字があるからより勝ち負けに拘っちゃうんだよな。レートとは関係ない対戦もしたいけどそれはフレンドとのバトルしかない。フレンド相手だとなんか気を使っちゃうから顔の見えない誰かとフリー対戦できるシステムとかできないかなー。

【ポケモンGO】GOバトルリーグ ジャンケンゲーで勝率は収束する(ハズ)、あとグチ

このところほぼ毎日ポケモンGOのGOバトルリーグ(以下GBL)をやっているが、体調が優れない時や疲れている時に連敗するとめちゃくちゃムカつくことがあった。負けると悔しいけどその怒りをどうしようかと持て余して、不完全燃焼のまま翌日のGBL 25戦を迎えることもある。なんで負けるとムカつくのか、イライラする時はどうすればいいんだろうとか調べていくうちに、ネット記事だが「対戦ゲームの勝率は5割程度に収束する」という文章を見た。

 

確かに、GBLにおいても、プレシーズンの勝率は忘れたがシーズン1の僕の勝率は5割程度だった。しかし、1セット5試合 x 5回を日々こなすと、出し負けを巻くれるほど読みが冴え渡る調子の良いセットもあれば、出し勝っても何をやっても全てダメなセットもある。5連勝、4連勝とうまく勝ち越したセットがあっても、1勝のみや2連勝のみのセットも増えていきトータルでは相殺される。試行数(対戦数)が多くなるほどこの傾向は強く出る。現状はこんな感じだ。(僕のトレーナーとしての強さはこの際置いておく)

f:id:kuniyaburetesangaari:20200519152352j:image

 

コレで何が言いたいかというと、負けてる時のどうしようもないムカつきや辛さというのはとてもストレスになるなることがある、しかもそれは対戦をやったらやっただけ半分程度は負け試合であり、さらにそのうちの何割かは連戦負ける可能性が十分あるということである。僕のような凡人には。

 

負けるのが嫌、というのであれば対処する方法はいくらかある。

・そもそも初めから対戦(とりあえずGBLに限る、他のゲームは考慮しない)をやらない

・ゲームをしたいなら1人で完結する他のゲームをやる

・自分の対戦を振り返り、何がダメかを考察する

・勝ち負けに拘らず、バトルそのものを楽しむ

など

 

しかし、これらに対して自分は反論していきたい。まず、対戦をやらないというのはあまりしたくない。第一に勝てばやっぱり嬉しいし、自分が育てたポケモン活躍させられる場はポケモンGOのバトルシステム内だと現状GBLが最適だからだ。それに報酬ももらえるならもらっておきたい。また、GBLのバトルシステムが1番駆け引きある対戦ができるため、勝ってる時は現状ポケモンGO内で1番楽しいバトルシステムである。

また、一人で完結する別のゲームをやると、これまでの経験上絶対にそのうち飽きる。画面越しに人がいるゲームや、もしくは友人・兄弟とワイワイやれるゲームじゃないと飽きはすぐ来る。

3つ目に対戦の振り返りだが、一応負ける時は考えるようにしている。しかし、対戦をビデオに撮って見返したりしていると莫大な時間がかかる。そうした方がより客観的に正確に考察できるが、正直めんどくさい。面倒くさいことに手間をかければ強くなりやすいというのは承知の上だが、ポケモンGO以外にもやりたいことはあるし時間も有限だ。何にもせずに勝ちたいというワガママのようではあるが、ゲームに対してワガママになることはいけないことだろうか。また、勝ちたいけどガチガチに対策に対策を重ねて、というよりは気軽にやって気軽に勝ちたい。

最後に、勝ち負けに拘らないというのだが、これは僕には無理だ。勝ち負けに拘らず勝っても負けても楽しい人もいるだろうけど、僕は無理だ。勝ちたいし、負けたら悔しい。対戦ゲームなのに勝ち負けに拘らないなんてそんなの面白くない。多分勝っても負けてもどっちでも良い戦いをしているとすぐ飽きると思う。

 

しかし驚くことに、これらのような「勝ち」にこだわるようなことはこれまでポケモンGOをプレイしていてあまりなかった。というのも、ポケモンGOGBL実装まではレイドもジムも「大抵勝てるゲーム」だったからだ。ジムもコンピュータの規則正しい攻撃、レイドも同様、星5レイドでもTL40とまでいかなくてもそれなりのトレーナーが5人以上人が集まればたいてい倒せる(場合によっては5人以下)し、おまけにバトルの方法はタップとスワイプのみという簡単操作だった。簡単にできて、しかもそれなりに人がいれば勝てるゲームだ。負けてストレスも溜まりにくい(というか負けるという事態があまり発生しない)。だから老若男女幅広い世代に受け入れられていたのだろう。うまくできていたと思う。バトル用のポケモンもでかい公園とかでせっせと集めれば良い。楽しくないわけがない。

また、レイドやジム戦において、負けることにそこまでデメリットがない。傷薬は減るが、それだってポケストップで容易に手に入るし、レイドボスを倒せなかったらまた違う場所へ行けば良い。ところが、GBLは負けると目に見えてレートが下がる、負けると報酬も微妙、という点がある。この辺りが特に負けた時のイライラを加速させる。

 

シーズン2より、通常パスでの報酬の獲得順番に変更が入った。これまで3勝すればもらえた不思議な飴4勝した際の報酬となり、これまで4勝しなければ得られなかったポケモンゲットチャンスは3勝した際の報酬となった。しかし、あくまで個人的な意見だが、この変更は改悪だと思った。確かにポケモンGOポケモンを捕まえてナンボのゲームだし、より対戦ライト勢でも報酬ポケモンをゲットしやすいように変更したのはわからなくはない。しかし、報酬ポケモンのほとんどは野生やレイドで捕まえられるし、報酬限定ポケモンもどうせそのうち野生で捕まえられるようになると思う(現にズルッグは先日のおこうイベントにて野生で出現した)。報酬ポケモンも毎回同じじゃないのでパイルの実を使っても進化させられるまで飴を貯めるには時間がかかる。

さらに不思議な飴だが、これはレアポケモンの育成には必須なため何個あっても足りないことはない。だから4勝よりも3勝の方が当然ハードルが低いのでそちらの報酬のままにしておいて欲しかった。それにバトル初心者ほどポケモンの育成がまだまだ少ないのでより多く不思議な飴を欲しているだろう。このGBLという運ゲーにおいて4勝を連続でするのは意外と難しいことなのだ。

 

ただGBLが嫌いなわけではない。ストレスも溜まるが同時にあまりメジャーでないお気に入りポケモンが活躍して勝てた時は非常に気持ちいい。金のかからないギャンブルのようだ。ただ、この「負けた時の嫌な感じ」はこれまでのポケモンGOではあまり感じなかったことなので、対戦で負けるということを考える良いきっかけにはなった。でもこういうのが嫌いな人はGBLやらなくなるだろうし、公式が「好きなようにGOしよう」とか言ってんだからGBL報酬限定のポケモンはどうなんかなとも思うが僕はGBLやりたい勢なので正直どうでもいい。

 

以上。

僕は劇中再現をしたおもちゃが欲しい、妙なアレンジいらない

先日初代ガンダムTVシリーズを見終えて欲しいものがある。そう、ガンプラである。ガンダムといえばガンプラであり、これまでの人生でプラモデルは作ったことはあってもガンプラは作ったことがなかった。そこで、初代ガンダム(いわゆるRX-78-2)の機体を作りたくて、手頃な値段のラインナップがないか調べた。すると最新のもので、定価2000円くらいのものがあるではないか。HGUC 191 機動戦士ガンダム RX-78-2ガンダム 1/144スケールというやつである。(バンダイのホームページとAmazonで検索)

 

しかしだ、商品のサンプル画像を見ていくとなんだか違和感がある。なんだろうと考えていると、それがわかった。アニメの機体よりも妙にスタイリッシュになって「カッコよくなりすぎて」いるのである。これが商品単体だけで考えればカッコいいロボット、というふうなのかもしれないが、僕が欲しいのは「アニメに出てきたちょっとゴツくてモッサリ感さえあるがそれが愛おしいガンダム」である。あのガンダムを作りたいのである。初代ガンダムの機体は型番?がRX-78-2というらしいので他の商品も検索してみると(ガンプラにもいろいろグレードがあるみたいなので)、他の「ガンダム」も妙にスタイリッシュすぎるのである。足が長すぎ、そのせいか手が短く見え、なんか顔も小さいしで、これはあのアニメに出てきたガンダムとは似て非なるものという印象がある。違うんだよバンダイ。僕が作りたいのはアニメに限りなく近いスタイルのRX-78-2 ガンダムである。劇中完全再現したプラモが欲しいなら放送当時のものを買わないといけないらしい。でも当時のは色分けも全然だし可動もそんなないしで、初めて作るガンプラにしてはクセがありすぎる。もうちょい普通のガンプラから入門させて欲しい。最新の技術を搭載したモデルのはみんな細身のイケメンガンダムばかりだ。何故なのか。

 

トランスフォーマーなら、ビークルモードとロボットモードをそれぞれ両立させないといけないので、どうして部分的には劇中とは異なる部分が出てしまう。でも、トランスフォーマーのおもちゃはそれを「本物っぽさ」でカバーし目立たなくしている。似てない部分もあるけど、全体のプロポーションや強調される「本物らしさ」や「本物に限りなく近い部分」を加味すると、「再現度が高いおもちゃ」として化ける。消費者が求める「本物らしさ(特徴的な身体パーツ)」を目立たせ、似てない部分をそれっぽく仕上げることで、総合的に見れば劇中同様のスタイルに近くなり満足感があるのである。ところが、RX-78-2 ガンダム のガンプラに限って言えば、初めから劇中再現されていない。プラモに落とし込むにあたりどうしてもアレンジが必要な部分というのもあるだろう。ところがあの長い足や細身の体型は明らかに意図的にアレンジされている。正直僕はそんなことして欲しくない。似ていない体。

 

ウルトラアクトもそうだ。ウルトラマンの可動フィギュアというのは喜ばしいが、ウルトラアクト特有の体型になっているため、テレビで見るウルトラマンと体型が異なる。「似ていない」のである。そうなると、「劇中再現度」を求める層としてはニーズに合致しないので「似てない商品」からは離れていく。フィギュアーツとかはいいと思う。劇中再現度が高く、なおかつ可動するとなれば遊びの幅は広がる。ま、持ってないけどね!(なら言うなという意見は受け付けない)

 

海洋堂ウルトラマンフィギュアもなんかアレンジを加えてるそうだ。いやいや、なんで?劇中再現度を高めてくれよ。アレンジ加わると、どうしても品質の高いフィギュアを見ても「コレじゃない感」が付き纏うんだ。海洋堂のティガも、ファイティングポーズのやつも素立ちのやつも、なんか微妙に似てないんだよな。アレンジを加えるということは裏を返せば完全再現からの逃げ、というコメントを見たことあるけど、本当にその通りだと思う。あと昭和シリーズのウルトラマンの素立ちフィギュア、なんか腕が手首だけ曲げてるあのポーズがなんか変だと思う。

 

じゃあ、再現度で言うならCCPはどうだ、となる。実物見たことあるけど確かにクオリティは高い。でもデカすぎるし値段も高いなというのも正直な感想。エースとか謎ポーズだし。ティガのラインナップを見た時、めっちゃ欲しい!って思ったけどサンプル画像とかフェスでの展示画像見ると、絶妙に顔が似てないんだよな。中村ティガの再現を目指したのはそれはそれで全然いいんだけど、プロポーションもなんかこんなだっけ?って思った。あと、ティガのTVシリーズのスナップとかみると、近年のニュージェネでの客演時のスーツよりも数段カッコいいんだよな。胸のプロテクターの形状が当時のスーツの方が締まりがあるし、スーツアクターのスタイルがめちゃくちゃいい。近年のティガはどうしても短足に見える。

 

以上、「コレじゃない感」にまつわる諸々を書いた。何かを作るって、見本があったとしても難しいんだな。何もないところからいるの時代普遍的にカッコいいものを創造するって本当に凄いことなんだな。

嫌なら見るな、の違和感

自分の好きな作品に続編が出たときや、好きなシリーズの中で部分的に微妙だと思うことは多々あるだろう。そういう感想をオープンな場で発信した時、得られがちな反応の一つに「嫌なら見るな」というものがある。一見正論のようにも見えるこの言葉であるが、時として嫌なら見るなが成り立たない時もある。すでに見てしまったから発信した感想であるという場合では、じゃあ次回以降見なければ問題解決、というわけでもない。気になる点があったら見てはいけないのだろうか。その回が面白いと思わなくても、あるいは不快だったとしてもシリーズ全体で見れば帳消しになる場合も多々ある。

 

そもそも、何かに対して自分なりの感想(マイナスの意味だったとしても)を言ったり、正しい意味での批判をした時、それに対して反感を示す人が一定数いるのは何故だろう。理由としては、自分が好きなコンテンツを悪く言うことが許せない、負の情報を発信している人に対し嫌悪感を覚える、といったところか。でも、何かについて例え負の情報だったとしても自分の考えを発信できるってのは素晴らしいことではないか。何故赤の他人がいちいち他人の感想に首を突っ込む必要があるのだろう。特定のコンテンツに対し、称賛の意見ばかりにしておかないと不安なのだろうか。

しかし、YouTubeで僕はトランスフォーマーだったりウルトラマンだったり玩具のレビューをよく見るけど、「言いにくいことだが、このおもちゃには〇〇という欠点がある。個人的にはそこが気に入らない。メーカーはもっとちゃんとした物を作って欲しい」といった意見を述べるとコメント欄には称賛コメントで溢れる。そして、YouTuberが「言いにくいが」と前置きするのも気になる。やはり世間的には、与えられたもの(作る側が発信したもの)について受け手(消費者)は文句を言わず黙って楽しむべき、といった空気でもあるのだろうか。目上の人間の指示には黙って従う忍耐といったこの国が大好きな精神性と通づるものがあるのは流石に飛躍しすぎだろうか?自分がいいとも思ったモノ、あるいは思いたいモノに対しみんなが同じように称賛していないといけないのだろうか?

 

好きなコンテンツの息が長いのは喜ばしい面も多い。まあシリーズが続きすぎて尻切れトンボになることもある(イナズマイレブンとかね…シリーズを追うごとにつまらなくなった)。こういう事態というのは、結局制作側にとっても消費者にとっても不幸ではないか?シリーズのため、と称して欲しくないものも買ったり、つまらないと感じたものでも適当に喜んでしまったり、それでいいのか?相手はビジネスなので、売れる見込みのあるコンテンツはそれなりに続かせる。しかしその結果わけのわからない方向に進んでそのコンテンツが崩壊したらとても不幸ではないだろうか?

 

いいところもダメなところも発信できるのが1番いいかもしれないけど、直感で「ここは良くない」と思ったことを発信したとしても、「自分もそう思う」という声が大きくなればコンテンツも軌道修正が入るかもしれない(その結果良い作品になるとは限らないが)。

 

ソシャゲが猛威を振るう時代だからか、お金をかけた方が偉い、お金を多く落とす者が偉いという風潮があるのも良くない。そうやってマウントを取りたがる人間も一定数いるのが人類に救いのなさを感じさせる。彼らは悪気があってそういうことをしているのではない。なるべくしてなっているし、周囲の環境が彼らをそうさせたのだ。

 

最後に、嫌なら見るなという意見は個人的に嫌いだ。そのコンテンツを正確に自分で評価するためには嫌でも最後まで見届けたい人もいるし、なにより「論破してやった」感が嫌いだ。そんな感想を相手にぶつけても何も生まれない。自分にちっぽけな満足感を得るだけだ。そしてそれは誰のためにもならない。まあただ人間の感情は難しいもので、途中で「あーこれ微妙かも。というより正直つまらないな」と思った作品に対して、最後まで見届けたとしても一度そう思ったらよほどすばらしい結末でない限りその評価は覆らないことが往々にしてあるんだよなあ…。

 

お金を使うことに罪悪感がある

昔からだが、何故かお金を使うことに罪悪感がある。別に無駄な高価な買い物をしたわけでもないのに、必要なものを買っても使ってしまったことを後々考えてしまう。「これはお金をかけていいものなんだ」と思える時が少ない。自分働い手にしたお金なのに、そう感じてしまう。どう使うかは僕次第なのに。

 

きっとこれの原因は、母親がいつも「お金がない、お金がない」とか、僕が買ったものに対して「またそんなの買ったの、もったいない」とか言われ続けたことによるトラウマみたいなもんかなと考える。浪費癖がないといえば聞こえはいいかもしれないけど、ここぞという時に思い切って使えない。そして僕は何か欲しいものを買って自分の生活が一変するのを恐れている。それ以外にも、環境が変わることを恐れてしまう。不変ものなんてこの世界には何一つないのに。この辺りも、思えば心配性の母親の元育てられたからなんだろうなと思う。大学に行けたのは祖父の援助をもらえたからだ。それまでは、あなたを大学に行かせるようなお金はこの家に無いと言われ続けた。受験生だった高校3年生の時の思い出は、苦しいものもたくさんある。

 

大学では独り暮らしをしたけど就職を機に実家に戻ってきた。戻るべき理由があったのだ。しかし、4年間の独り暮らしは僕の精神の自立を促していたと思う。実家に戻ってきてからそのことに気が付いた。知らず知らずのうちに親の精神的束縛を解いていたのだと。でもそれは完全には終わっていない。そしてまた実家に戻って数年が経つ。親を見ていると、哀れに思うことが多々あるけれど、それでもかわいそうに思い放っておくことができない。僕は自分の人生を生きるために、親から覚悟を持って距離を置くことに踏み出せずにいる。自分が我慢をし続けていると感じる。親の顔や言葉が届く範囲だと、体が親の期待に沿わなくちゃいけない、親を悲しませてはいけないという方向に動いてしまう。

 

やっぱり、ある程度歳を行ったら親と子は離れてそれぞれの人生を送るべきなんじゃないかと思う。親のためにも子のためにも。いつまでも子に干渉し期待を吹き込み続ける親では、子の主体性を殺してしまいがちだ。でもそれは親自身の精神的な問題でもある。自分に自信が無いから子に自分のできなかったことをさせたい。子どもくらいしかまともに話せる相手がいない。何かあると全部自分が悪いと思い込む親。こんな親を見ていると、この先の僕の人生はどうなってしまうんだと感じる。でも、この親でも悲しませたくないとも感じてしまう。

 

あーあ、せっかく時間があるのに、なんだかあまり気分が浮かない日々が続く。お金も時間も自分の味方につけて、自分の人生を歩みたい。

最終的に待ち受ける死

この社会(少なくとも日本)では人は誰でもいずれ死ぬということが忘れられがちである。人の死があまり身近にないからだ。一生の前半で経験する印象的な死は、祖父母や両親一般的であろう。ある程度歳を取れば自分の周囲の同世代でも早死にをしていく人が現れ始めるだろう。また、それ以前にも不慮の事故等で友人や親しい知人死ぬこともあるだろう。しかし、家族が死ぬといっても、普段の生活を共にしていなければ死んだ時は悲しいかもしれないが、再び自分のの生活に戻っていくだろう。

 

両親祖父母は自分より年上なので、死んだとしてもそれはある程度は当たり前のことであるから受け入れられやすい。死の理由を、自分自身納得しやすい。友人知人が死んだとき、人によって家族の死よりも衝撃的だろう。一般的には精神的な距離は家族よりも家族以外の人との方が近いからだ。しかし、その友人知人も、多くは普段の生活を共にしているわけではない。基本的に自分の毎日の生活に干渉してくることはないため、死んだ時は悲しいがやはりそう遠くないうちにやがて自分の生活に戻っていくだろう。誰もが死に向かって真っ直ぐ進んでいるのに、この社会ではそれを忘れさせてしまうくらい目の前にいろんなものが次から次へと流れてくる。仕事、勉強、ニュース、趣味のこと…。ひとつの死に構い続けてていられないのだ。本当はもっと悲しくても、周囲は悲しむことを許さない。前を向きな、いつまでも悲しんでいてはあの人も浮かばれないよとか、泣いたって戻ってくるわけではないからあの人の分まであなたが生きなきゃ、とか言われる。一般論だからなんとなく自分もうっすらそう思い続けているから、周囲の言葉を「ありがたい励まし」として受け入れようとしてしまう。そして自分もそのような言葉を誰かに言う。僕らは忙しいのだ。人が死ぬのなんて当たり前だし、そのことで何日も仕事とかを休まれると迷惑をかけてしまうと思ってしまうし言われる。葬式が終われば翌日からは「これまで通りの自分」を周囲から求められる。

 

でも、人が死ぬということは、そんな日常の中に埋もれていく程度のことなのだろうか。十分に悲しむ間もないほど忙しい世界は、悲しみを押し殺してまで維持し続けてはいけない世界なのだろうか。どんなに自分が誰かの迷惑にならないようがんばったとしても、その誰かも自分もいずれ死んでいく。成長を夢見て必死に毎日何かに取り組んでも、いずれは死ぬし死んだら自分の中にあるもの全てが無に帰すのだ。自分に関わりのあった人が無に帰した時、その儚さに立ち止まらずにはいられないだろう。自分もいつかこうなると思うと怖い気持ちも湧いてくるかもしれない。

 

どうもこの世界は悲しむことはよくない、ある程度悲しんだら切り替えて日常を頑張って生きないといけない、という風潮があるように思う。自分もいつか死ぬということが本当にわかっているのだろうか。なぜ、悲しんで手を止めることの何がいけないのか。僕たち人間は感情の生き物だ。程度の差はあれ、大切な人が死ねば悲しいに決まってるんだ。そして、その悲しみをやりこなすのにかかる時間は人それぞれだ。事務的な休暇をこなせば終わるはずがない。みんなそうだから我慢しろ、というのがおかしい。なぜみんなで苦しくなる方向へ進んでいくのか。死に方にもいろいろある。それによっては自分自身も深く傷付くことだってあるはずだ。決して前の自分には戻れないくらい傷付いても、それは自分以外の人には目で見ることができない。目に見えないことを僕らは軽く見てしまう。なんだ、意外と元気そうじゃないかと。人の心の内など見ることができない。そのために僕らには想像力がある。でも僕らの想像力は自分の経験した以上のことは曖昧にしかわからない。想像できたとしても、やっぱり相手の本当の心の内はわからない。

 

ひとりぼっちじゃなくても、生きて死んだらそれで自分にとっては終わりなのだ。いつか死ぬのだと思うと、世の中にはどうでもいい争いがいっぱいある。クソみたいな大人の事情がいっぱいある。そんなクソみたいな大人の事情に巻き込まれて命を落としていく人間もいる。彼らは何のために死んでしまったのだろう。死んだらもう生き返ることはできないのに。この世界は悲しみに溢れているのに、何かがそれに蓋をする。