この海に居ること

人生ゲームの消化試合

嫌なら見るな、の違和感

自分の好きな作品に続編が出たときや、好きなシリーズの中で部分的に微妙だと思うことは多々あるだろう。そういう感想をオープンな場で発信した時、得られがちな反応の一つに「嫌なら見るな」というものがある。一見正論のようにも見えるこの言葉であるが、時として嫌なら見るなが成り立たない時もある。すでに見てしまったから発信した感想であるという場合では、じゃあ次回以降見なければ問題解決、というわけでもない。気になる点があったら見てはいけないのだろうか。その回が面白いと思わなくても、あるいは不快だったとしてもシリーズ全体で見れば帳消しになる場合も多々ある。

 

そもそも、何かに対して自分なりの感想(マイナスの意味だったとしても)を言ったり、正しい意味での批判をした時、それに対して反感を示す人が一定数いるのは何故だろう。理由としては、自分が好きなコンテンツを悪く言うことが許せない、負の情報を発信している人に対し嫌悪感を覚える、といったところか。でも、何かについて例え負の情報だったとしても自分の考えを発信できるってのは素晴らしいことではないか。何故赤の他人がいちいち他人の感想に首を突っ込む必要があるのだろう。特定のコンテンツに対し、称賛の意見ばかりにしておかないと不安なのだろうか。

しかし、YouTubeで僕はトランスフォーマーだったりウルトラマンだったり玩具のレビューをよく見るけど、「言いにくいことだが、このおもちゃには〇〇という欠点がある。個人的にはそこが気に入らない。メーカーはもっとちゃんとした物を作って欲しい」といった意見を述べるとコメント欄には称賛コメントで溢れる。そして、YouTuberが「言いにくいが」と前置きするのも気になる。やはり世間的には、与えられたもの(作る側が発信したもの)について受け手(消費者)は文句を言わず黙って楽しむべき、といった空気でもあるのだろうか。目上の人間の指示には黙って従う忍耐といったこの国が大好きな精神性と通づるものがあるのは流石に飛躍しすぎだろうか?自分がいいとも思ったモノ、あるいは思いたいモノに対しみんなが同じように称賛していないといけないのだろうか?

 

好きなコンテンツの息が長いのは喜ばしい面も多い。まあシリーズが続きすぎて尻切れトンボになることもある(イナズマイレブンとかね…シリーズを追うごとにつまらなくなった)。こういう事態というのは、結局制作側にとっても消費者にとっても不幸ではないか?シリーズのため、と称して欲しくないものも買ったり、つまらないと感じたものでも適当に喜んでしまったり、それでいいのか?相手はビジネスなので、売れる見込みのあるコンテンツはそれなりに続かせる。しかしその結果わけのわからない方向に進んでそのコンテンツが崩壊したらとても不幸ではないだろうか?

 

いいところもダメなところも発信できるのが1番いいかもしれないけど、直感で「ここは良くない」と思ったことを発信したとしても、「自分もそう思う」という声が大きくなればコンテンツも軌道修正が入るかもしれない(その結果良い作品になるとは限らないが)。

 

ソシャゲが猛威を振るう時代だからか、お金をかけた方が偉い、お金を多く落とす者が偉いという風潮があるのも良くない。そうやってマウントを取りたがる人間も一定数いるのが人類に救いのなさを感じさせる。彼らは悪気があってそういうことをしているのではない。なるべくしてなっているし、周囲の環境が彼らをそうさせたのだ。

 

最後に、嫌なら見るなという意見は個人的に嫌いだ。そのコンテンツを正確に自分で評価するためには嫌でも最後まで見届けたい人もいるし、なにより「論破してやった」感が嫌いだ。そんな感想を相手にぶつけても何も生まれない。自分にちっぽけな満足感を得るだけだ。そしてそれは誰のためにもならない。まあただ人間の感情は難しいもので、途中で「あーこれ微妙かも。というより正直つまらないな」と思った作品に対して、最後まで見届けたとしても一度そう思ったらよほどすばらしい結末でない限りその評価は覆らないことが往々にしてあるんだよなあ…。