この海に居ること

人生ゲームの消化試合

大学時代の友人と話すのが1番楽しい

大学時代の友人とオンライン飲み会をした。メンバーのうちの1人は卒業後も何回か会っており話している。中学、高校の時と友人はそれぞれいるのだが、大学時代の友人と時間を共有する時が1番「安定感」があって楽しい、と感じている。もちろん1番楽しいってだけで中学高校の友人と話すのがつまらない訳ではない。しかし、大学以外の友人と話をしている時、「なんか違うな」という妙な違和感を感じることは多い。特に就職してからは高卒の人との間にコミュニケーションの壁を感じた。同期の高卒はやっぱり高校のノリのままって感じがするし、自分はなんかそういうのはもう終わったんだよなって感じてしまう。個人的な観測範囲だと、高卒の人「こうあるべき」という価値観を押し付けてくる人が多かった。まあ大学でも結構そういう人もいたので世の中一定数いるかもしれない。

 

大学まで行くと入った学科は幸運にも僕は第一志望だったため、「やりたいと思ったことがやれる学部」で入学できた。となると、根幹の興味や考え方は似通っている者が集まりやすい。根幹の興味というのは一生を通しておそらく興味を持ち続ける分野という意味で、自分のアイデンティティの主たるひとつである。自分の多くを占めている領域とでも言うべきだろうか。だから、話も合いやすいし考え方も違いはあるけど価値観を共有しやすい。自分常日頃関心を持つことについて話しやすいし相手もその領域の「共通言語」が通じるため、相手の話を聞いていてもとても楽しい。楽しくコミュニケーションができる。相手の興味ある話題に合わせ続けたりとか、正直あんま興味ない話聞いていなければならない、といったことが起きにくい。まあ、そんな無理してコミュニケーションするような人は真の友人じゃないという意見も最もだと思うけど、本当にコミュニケーションできる友人は1人だけだったとしてもいいと思う。その人と交流することはすごく自分にとって良い作用を与えていると思う。

 

自分の人生に良い影響を与えてくれる人に多く巡り会いたいものだ。そして自分が誰かのそれになれたらいいとも思う。人と話すというのはなんて刺激あることなのだ、と思う。集団の中にいれば1人でいたくなるくせに、ずっと1人でいて誰かと話すと「話せてよかった」と思ってしまう。僕はなんて勝手な生き物なんだ。どうして人間は「話したら楽」になるのか。どうして1人だけで悩みを晴らすより誰かと一緒の方が乗り越えやすいのか。どうして僕らは人と関わりたくなってしまうのか。真に分かり合える人間はこの世にいるかどうかもわからないのに、人と人で傷付け合うこともザラなのに、どうして僕らは1人では生きていけないのか。1人生まれて1人で生きて1人で死ぬことが、どうしてできないのか。誰かと出会えば別れはあるし、関係が親密になるほどに死という別れが辛くなるだけなのに。人は死んだらもう会えないのに、そしてそれは何より苦しいことなのに、どうして僕らはそんなことを考えず誰かと関わってしまうのだろう。僕が死ぬときは、誰からの記憶からも消えて誰も悲しませずに苦しませずに死んでいきたい。

続編やリメイクは原点を超えられない、原点にして頂点

いつの時代でも漫画やアニメにおいて、過去の名作が完結から時を経て続編が作られたり、あるいはリメイクが作られたりする。続編が出るとなれば愛されている作品こそ盛り上がるし、リメイクが出るとなれば見たことのない過去の原作を現代の価値観に近い「馴染みやすいもの」として違和感のない仕上がりで見られることが多いため期待がされる。だが、こういう作品が原作の評価と同等あるいは上回ることはあるのだろうか?と最近ふと考えた。じゃあ僕は一体何の続編やリメイクをどれくらい見たのだと考えると具体例をパッと思い浮かばないが、これまで生きてきて見てきた作品から感じたフワッとした個人の感想を書いていく。

 

まずは続編について。僕はかつてシャーマンキングを全部読んだことがある。もう何年も前なので内容も結末あまり覚えていない。しかし、今は休刊となったジャンプ改なるものでシャーマンキングフラワーズという続編が連載されていた。こちらも一応連載を追っていた。しかしいつの間にか読むのをやめてしまった。元のシャーマンキングの方が面白かったからだ。続編ではまた天下一武闘会的なのをやるから仲間集め、的なのを内容から始まったような気がするが、でもそれってもうやってるじゃん、って卒直に思う。続編に多いのは、結局新キャラが過去の焼き直しを行うこと、元作品ほどの勢いがない、かつてのキャラの扱いが中途半端、といったものがあると思う。

あと、ドラゴンボールなんかそうだけど、やっぱり漫画原作の範疇が1番面白い。僕はドラゴンボールが好きだ。アニメはちゃんとは見てないが、GTも超も神と神も復活のFも見た。GTはマジで基本的につまらなかったし、スーパーサイヤ人4も悪くはないけどネタ切れ感が否めない。最後の元気玉くらいしかアツいシーンもなかったように思う。神と神もお祭り映画とはいえタイトルに「Z」がついてるけどなんかテンポも悪いし緊迫感もなくて期待しすぎて損したかな、って感じで肩透かしを喰らった。復活のFは肝心のフリーザ対悟空までは面白かったけど、フリーザも悟空も遊んでるし、新形態のスーパーサイヤ人ブルーへの変身もあっさり終わるし結局スーパーサイヤ人ブルーはその時点最強形態のくせにフリーザの方が強いしで、まーた微妙な映画だなと思った。スーパーは最後の方はまあ面白かったけど、でもフリーザセル魔人ブウとかを倒すときほどの面白さみたいなのは感じられなかった。

 

続編だと、見る人が求めるのはもちろん「元作品のような面白さ」だけど、それはすでに「元作品」の中にあるので、続編を作ったとしてもどうしても「なんだか見たことあるような展開」で新鮮さに欠けやすい。となると、初めて見た時の衝撃みたいなのは無いし、初見の衝撃的な展開(いい意味で)があったおかげで名作になれた作品だと、それを超える衝撃的な展開や物語を焼き直しではなく新規で用意しなければ元作品と比較してどうしても目劣りする。それってすごく難しいと思う。元作品からの流れに違和感を持たせることなく、過去誰にも似てない新キャラや新しいエピソードで「元作品っぽさ」を残しながらやらなければならないのだ。

 

リメイクについて。リメイクをする場合、絶対にリメイク前のままが好きなファンがいるので賛否両論になるだろう。人によってリメイクに何を求めるのかが違うと思うので、万人が納得するリメイクとなるとかなり難しいと思う。第一、原作が面白く愛され続けるからこそ時を経てリメイクしようとなると思おうが、すでに原作には完成された面白さがある。原作を再現するだけならリメイクをする意味がない。アニメなら全く同じキャラデザ、全く同じセリフで画面を綺麗にするだけなら、それこそBlu-rayにでもして出せばいいだけである。原作のノリをもう一度味わいたいなら、原作を見ればいいのである。新たに作る必要がない。また、リメイクアニメだと大概新規声優が出てくるので原作の声だからこそ好きだった人には微妙な感じになる。寄生獣にように今風にアレンジすると、原作っぽさがなくなるし、「原作の皮を被った何か」になる。ハンターハンターのように、最初のアニメ化時にはなかった原作部分が時を経て一章分丸々できたからいっそのこと最初から、というのならいいかもしれない。ハンターハンターは漫画で読んだが最初にアニメは見ていない。故にリメイクのアニメだいたい見たけど普通に楽しめた。リメイク前を見ていない人にとってはリメイクはいいきっかけかもしれない。

でもリメイクって、上記のように原作を再現するだけなら原作見れば良くね?ってなるので大抵アレンジが加わる。するとやっぱりどうしても原作と違うことから来る違和感が出る。となると、作品としては面白かったとしても結局原作には勝てんな、という感想になってくると思う。

 

神がかった原作や、多くの人を惹きつける名作を作った人が、その後の作品がパッとせず、結局続編やリメイクで戻ってくるのって、なんだか哀しさがある。それが原作よりもつまらなかったらなおさらだ。また、続編やシリーズが愛されていても、1作目に出てきたキャラや設定がいつまで引っ張られたりするのを見ると、結局1作目が原点にして頂点なのかな、とも思う。原作のような話を引っ張っていく名キャラを続編以降で作り出せていない、というような気持ちになる。

Zガンダムを見終えた。一応最初のガンダムの続編ということで戦闘描写や話の練り方は圧倒的なものを感じるが、アムロもシャアも出てくるあい、ガンダムシリーズ全部見てないがその後も彼らにまつわるOVA出ているようだ。結局、初代がずっとバックを支えているのだ。

 

しかしここでハッとした。自分はポケモンGOも結構やっている。1番好きな地方はホウエンだ。それは自分が初めてまともにプレイした原作だからだ。ポケモンこそ初代が至高と言われる。確かに初代のポケモンは、それまでポケモンシリーズが無かったところにあのモンスター達を生み出したのは凄すぎる。デザインもいい感じにモンスターじみている。カントー地方にも好きなポケモンはいっぱいいるがやはり3作目のルビーサファイアに出てきたポケモン達が好きなのだ。

 

まあでも、漫画にしろアニメにしろ、それを見る時の自分にコンディションで感じ方は結構変わるし、自分が面白いと思ったのなら続編だろうがリメイクだろうが好きでいればいいし、他人の評価を聞いて自分の評価を変える必要はないのである。そういうのは自分がとても苦しくなるからだ。常に新しいものを作ることだけが作品を作るということではない。

生きていくほど悲しみの種類を知る

昨日とは違う悲しみを知る。人と関わるごとにその人特有の悲しみを知る。様々なフィクションに触れれば、そこでも悲しみの多様性を知る。自身に関係しそうなもの、あるいは直近では縁が無さそうな悲しみ。人の命はなんなのか。誰かを悲しみから救うために差し伸べた手でも、その人にとってはベストなサポートにはならないかもしれない。自分としては精一杯支えをしたつもりでも、相手にとっては見当違いな支えだったかもしれない。ありがとう、と言われても素直に受け取ることができない。それは自分が自分に嘘をついているからだ。誰かの行為に対して、本当はそこまで助かっていなくても、相手の気持ちだけに感謝して、相手の気持ちを慮って、「本当はもっと〇〇して欲しかったんだけどな」という傲慢な思いを押し込み、ありがとうと返す。そういう気持ちを知っているから、他人の感謝の気持ちを素直に受け入れられない。そして常に、自分が誰か困っているところを助けたとしても、本当の意味で助けられたのだろうかという疑問がつきまとう。人はあまりにも多様であり、その人それぞれの価値観が存在し、自分にとっての正しいが相手にそのまま通用するかどうかはわからないと思ってしまう。

 

誰かが困っている話を聞けば、そこからその人の悲しみを想像してしまう。なぜ、そのような悲しみが生まれたかを考えてしまう。そういう時、関わる人みんなが各々の正義に従って行動していることがある。みんな自身にとっては正しい行動をしてきたのに、誰か1人が悲しみを引き受けていることがある。でも、その人もみんなが「正しい」ことをしているからその人達が悪いというより自分自身の問題だと思ってしまうこともしばしばである。人は誰かに育てられて価値観を形成する。育てる人も誰かに育てられる。その人を育てた人も誰かに影響を受けながら育てられている。自分の行いが正しい正しくないと考える隙すらなく、無意識に当たり前のこととしてやってしまう。振り返るということは思考の外なのだ。ずっと連鎖している。どこかのタイミングで、誰かが傷付いているかも知らずに。

 

人間というのは、こんなにも悲しみを生んでしまうのかと嫌になる。物質や治安的には諸外国よりマシとされ一見平和なように見えるこの国でさえ、この国の社会ならではの悲しみが存在する。人によっては人生で知る悲しみよりも人生の幸せや生きがいが上回る人もいるだろう。だが、人生で幸せと思える時期ってのは、一体どれくらいあるのだろうか。一体いつになったらこの生きづらさは消えてくれるのだろうか。悲しみや辛さが幸せを上回った時、人は自ら死んでしまう。この世界が作り出す幻想に惑わされ、実態のないものに傷付けられた人間が自ら死ぬほど、悲しく遣る瀬無いことは無いと思う。毎年3万人程度の人が自ら命を絶っている。3万人といえばちょっとした街の人口程度ある。毎年だから、2年経てば6万人くらい、3年で9万人程度、となる。交通事故の死亡事故よりも圧倒的に多い。毎年、誰かの自死に巡り合う人が3万人以上はいるのだ。亡くなるその人に距離が近い人ほど心に傷を負う。距離が近くなくても、亡くなる人との関わり方によっては深く傷付く。毎年悲しみが生産されていっている。

 

自分が幸せだと思うには自分の行動に自分が納得できなければ無理だと思う。自分はこれでいいんだと思えなければ、生きていくことはとても辛くなるだろう。これでいいと思いたいのに、無責任な他人が邪魔してくるのザラである。悪意の邪魔もあるが善意の邪魔もある。どっちの存在もヒトという存在の悲しさを感じさせる。僕は、人と人は分かり合おうとすればある程度は分かり合えるけど完全には無理だと思う。分かり合えたとしてもそれは永遠ではない。

 

幸せは長く続かないから幸せなのであり、人と人は分かり合えず、それぞれの正義で身を守るしかないどうしようもない社会だけが存在する。そこで僕たちは知らない間に生まれ、なんとなく生きてそのうち死んで、そして忘れられていく。そんな儚い存在の人間が傷つけ合っているなんて滑稽である。

両親という檻

僕たちはだいたい親に育てられて育つ。また、血の繋がった親ではなくても誰か大人に育てられる。それはまだこの世界について何も知らない赤ん坊の時から既に行われる。僕たちの社会では親が子を育てるのは当たり前だが、これって「正しい」のだろうか。「育てて“もらった”恩を返す」などという表現があるが、「なぜ」僕らは親やそれに相当する育ててもらった人に恩を返す必要があるのだろうか。いったいその人に育てられたことで、自分の人生は本当に幸せになっているのだろうか。

 

人は、他人の気持ちを思い遣り考えるときに「自分だったらどう思うか」ということを基準に考えがちである。「ヒトの気持ち」において、確信を持ってわかるのは自分の気持ちだけだからだ。そして、自分は〇〇と思うから他人も〇〇と思うに違いないと意識的あるいは無意識に考える。そして、自分にとって正しいことは相手にとっても正しいと思い込み、しばしば価値観を押し付ける。相手の価値観が違っていたり自分の想定とは異なる方へ傾けば、それは間違っていると否定する。親子においてよく起こる問題である。しかしこれを多くの人は問題だとは思わない。親gq子を育てしつけをするのは当然だし、一般常識とされる多くの人が遂行している行為の範囲内であればそれは「正しいこと」とされる。

 

歳を重ねるにつれ関わる人も相対的に増えていくが、そういう人達や過去の自分を振り返ったとき、そこには「全てを完璧に正しくこなす完璧な人間」というのは存在しない。人によって取り巻く環境は大きく異なるので、誰かの「正しい」は自分にとって「正しい」かどうかはわからないからだ。特に自分を振り返ると、つくづく未熟だったと思う。まあ、成熟した人間の定義も定まっていないが。そんな、不完全で未熟な存在である僕たちが、他人を導いたり育てたりできるほど素晴らしい人間なのだろうか。子どもという、ひとつの新しい命を生み出すとき、そこには生まれてくる子どもの人生は熟考されているだろうか。生まれてくる人間の幸せは保証されているのだろうか。存在すらしていない子どもの意見は聞くことができないから、全ては親や大人たちの都合で子ども達は生まれてくる。望んだわけでもないのに生まれてきているわけだ。宗教的な話は信じない。僕は科学を信じる。生まれて数年のヒトの子はたった1人では生きていけない。大人の助けが必要となる。どんな人間でもだ。つまり、子どもが生まれて育つためには親や大人たちの助けは必要不可欠であり、「育ててもらった恩」とは次元の異なる話である。世界を何も知らない子どもを生んだのだから、その子を育てるのは当然の義務である。なぜそこに恩を感じる必要があるのか。生まれたいと願って生まれてきたわけではない。気付いたら既に命を持って存在しており、そしていろんな社会の都合を押し付けられる。それらにそぐわなければ、傷付けられる。僕らは何のために生まれてきたのだろう。

 

親は、その子に対し様々な期待を寄せる。自分の達の願望を押し付ける。親だけではなく、祖父母や親戚、学校の先生などもだ。「これをやってはいけない」「こうしなければいけない」という基準は、世界共通ではなく大部分がその親に委ねられる。世界を何も知らない人はその親の言うことに耳を傾け影響されるしかない。そして、親の主義思想で形成された思考の檻が出来上がる。当事者の子ども自身は、自分が檻の中にいることもわからない。子どもにとってはそれが世界の全てだからだ。子は親の鏡だ。しかし子どもには子どもの人格があるので、自分を保ちつつ親も受け入れようとしてしまう。2つ以上の人格を1つの体に入れようとしてしまう。正常であれば、1つの体には1つの人格しか入らない。そこで、子どもに自立心が芽生えてくると子どもは苦しむ。親が求める自分と、自分の望む自分が違うということに苦しむ。でも、今まで親の人格や価値観を自分の中に受け入れすぎてしまい、自分だけの人格を確立させ方がわからない。親にとっては何歳で自分の子は子なので、どんどん子の心に入ってくる。親の気持ちを気遣う優しい子どもほどそれを否定できない。否定される辛さは自分自身がよく知っているからだ。

 

親による子育ては、人間の可能性をかなり押し殺していると思う。子どもの発想はつまらない常識に縛られた大人から見れば馬鹿げたものも多々あるかもしれないが、僕らが失った想像力を持っている。ただ一方で、いじめに代表されるように子どもならではの残虐性も併せ持つ。彼らに他人も自分自身傷付けさせず伸びやかに育てるためには僕ら大人がそういう社会を用意しなければならない。世の中で当然とされていることに対して、「なぜ」と考え続けると、本当にそれを守ることで皆が幸せになれるか疑問もある。

 

僕たちの命はいずれ終わる。人生に意味はない。死んだら無になるだけなので生きて幸せになってもそれは死とは無関係の場所にある。でも、僕は幸せになりたくないと思ってしまう。まだ死にたくないと思ってしまう。命とこの肉体の檻の中で、今日も生きてしまう。

誰のためにブログを書くか、そして文章を読まない人、読む人

ブログを書いていて思うのは、そういえばこの文章は誰かに向けて書いているのだろうか、ということである。当然、ブログという形式をとっているので自分以外の人にも見てもらいたい、という思いはある。しかし、「読みやすい文章」「読んでもらえるようなわかりやすい文章・編集」というのを僕はほとんど行っていない。自分の記事を後から読み返すと、言いたいことがイマイチうまく表現できていなかったり、わかりにくい文章だな、と思うこともある。しかし実際書いていると次々と言葉が浮かぶ。文章の構成を気にするよりも早く言葉を書いておきたくなる。浮かんでくるものを書き起こすだけで今は精一杯だ。じゃあ、このままでいいか。とりあえず続けよう。

 

ただ、このブログを始めた時は、誰かが僕のブログを読んで、僕の書いたことに共感することで少しでも気分が楽になったりするのの手助けになればいいな、とも思った。そういう文章を書くなら、もっと他人に寄り添い他人の心を掴む文章を勉強練習しなければならない。まあ、そこまでいくのはまだ自分には早いかなと思うのでひっそりとこのまま言葉にしていこう。だったら個人的な日記として非公開でいいかもしれないと思うがまあその辺は深く考えないでいこう。

 

誰かに文章を読んでもらう、というのを意識し出したのは大学生の頃からだ。僕は理系で、研究室では定期的に自身が興味のある英語論文を日本語に翻訳し、内容を研究室メンバーに発表するという場があった。僕の作ったスライド資料や発表原稿を先輩に添削してもらうときに必ず言われたのが「文字が多い」ということだった。自分なりに見ている人にもわかりやすくしようと工夫したのがかえってわかりにくくなっている典型である。それから口頭で発表するのも苦手だった。まあ得意な人はどちらかといえば少ない方かもしれないが、「自分の思っていることを他人に伝えるのが苦手」で、「情報量が多すぎる」という問題点を抱えていた。社会人になってからも、「前置きが長い」とか「いいから本題に入って」とか、「君の文章はごちゃごちゃしている」ということを何回も言われた。自分では、注意して一文一文を短くしかつ初めて見る人にもわかりやすいように努力し続けていたつもりだったが、どうやらそれはなかなか身を結ばなかったらしい。

 

そんな中、顧客や社内から来たメールの内容について上司や先輩などいろんな人と話したりやりとりをしていく中で、気づいたことがある。世の中には、どんなに短い文や、どんなにわかりやすい文章でも読まない人がいる。はたまた、自分のように、よくわからない文章を書く人もいれば、送られてきたよくわからないメールでも必死に読み込んで解読しようとする人もいる。そして、自分は文章を読むことにあまり抵抗がなく、長文でもとりあえず最後まで読んでみる。意味のない、緊急性のない文章で読んでしまう。本の「前書き」だとか、何かの「注意書き」とか、言葉が書いてあれば目に入ってしまうしそれを自分から読みに行く。つまり、文章を読む人、読まない人が世の中にいて自分はどちらかと言えば文章よく読む方だ。だから文章が一般に比べ多くても自分の中では許容範囲内であり、他人に何かを伝えるときに情報過多でまとまりがなくなりがちなのかなあ、と推理した。

 

世間的に好まれるのは僕のような白黒ハッキリつけない何言ってるかわからないごちゃごちゃした奴ではなく、短くきっぱりわかりやすく(そして白黒もはっきりつける)表現する奴だ。万人受けがいい。会社でも「簡潔に書け」よく言われるし、そういう文書の方が読みやすいのは確かだ。でも、かつてサカナクションの山口一郎氏が言っていた(僕はサカナクションのファンである)。「今の世の中、シンプルでわかりやすいものが求められがち。でも、僕らは難しくて面白いものを作っていきたい」と(こんなような内容だった)。わかりやすい文章も、わかりにくい文章も、この世に存在していていいのだ。簡単でわかりやすいもの=良いもの、難しくわかりづらいもの=悪いもの、ではなく、情報が多くてもそれと向き合い、自分から理解しに行く姿勢で「難しくてわかりにくいもの」と向き合っていく中で得られる発見もあると思う。そういうスパイスが、人生の幸せの鍵を握っていると思う。自分で考え行動に移した結果から得られる経験が、その人の人生に深みを与えると思う。難しいとかわかりやすいとかの基準は人それぞれだから、他人と比較する必要はない。いずれその比較する他人とは関係なく死んでいく人生だし、自分で自分を満足させられなければ誰も自分を満足させられない。

 

僕はいろんなことをあれこれ考えちゃう性格だし、言葉にすれば多くてごちゃごちゃしてわかりにくいという人間だ。でも、こうやって言葉にして自分自身の理解が深まっていくのなら、誰のためにもならないブログだったとしてもいいのではないか、そんなふうに思う。

ウルトラマンは物語の主役なのか、それとも戦闘手段なのか

最近ガンダムを見始めた。初代のテレビシリーズを見終えたので、今はZガンダムのテレビシリーズを見ており半分くらいを見終えた。そこで感じたのは、確かにガンダムはカッコいいのだが、あくまで物語の中心は人間であり、ガンダムは兵器に過ぎない、ということである。Zガンダムの途中でホンコンシティで市街地戦があり、ビルの並び街で巨大な戦力がぶつかり合う、というのがウルトラマンみたいだなと思ったので、タイトルの考えが浮かんだ。

 

ガンダムはたくさんのシリーズがあり、ガンプラはその関連商品の中でも非常に有名だ。「ガンプラ市場」なる関連商品の一大市場形成されている。そして、ネットでガンプラについていろいろ調べていたら気になる一文を見つけた。「現行シリーズのガンダムは、ガンプラや玩具を売るための宣伝材料になっている」というものだ。ガンダムシリーズのひとつとして「物語」を作るのではなく、「カッコいいロボット同士が戦う」アニメとなっている、といった感じの指摘だった。確かに、ガンダム本編シリーズをちゃんと見ていなくても見た目のカッコよさからガンプラを買う人は一定数いるだろう。僕の知人の弟も、ユニコーンガンダムガンプラを買っていたがユニコーンガンダムはおろかガンダムシリーズもまともに観たことはなかったとのこと。別にそのこと自体は悪いわけではない。このように、本編を見ていなくてもガンプラを買ってくれる人がいるのであれば、ガンダムという「キャラクター(敢えてこう表現する)」自体に魅力があるということになる。本編から独立してキャラクター単体で人気を得るというのはそれはそれですごいことなのだが、こういう現象が多くの人に受け入れられるほど、「カッコいいロボットが出てくるアニメ」としてのガンダムに磨きがかかるだろう。そういう時代かもしれない。

 

ウルトラマンにおいても、近年のニュージェネはちゃんと観ていないので申し訳ないが、かいつまんでビジュアル資料やホビー雑誌でピックアップされたりしているのを見ると、どうしてもオモチャっぽい武器だったり、関連グッズにバリエーションが豊富である。オモチャを売るための番組としての側面を持つのは昔からだが、もうウルトラマンネクサスのような、ストーリーを練った作品として勝負するウルトラマンは出てこないのだろうか。新番組のウルトラマンZも、また諸先輩方の力を借りる系か…というガッカリ感は否めないし、となると販促の色がちょっと強めかもしれない。

 

ウルトラマンネクサスにでは、主人公以外がウルトラマンに変身する点や、防衛組織がかなり強いことなど、番組タイトルこそウルトラマンネクサスであるが、ウルトラマンネクサスを中心とした人間ドラマという感じがする。いやいや、ウルトラマンが出る作品で人間ドラマなんか興味ないよ、ウルトラマンが出てきて派手に怪獣と戦ってカッコよく光線技を放てばそれでいいんだ、という人もいるかもしれない。しかし、だ。僕は「それだけ」のウルトラマンだとしたらどうしても物足りなさがあると思う。少なくとも僕はそう感じる。骨太のストーリーがあって、あくまで「戦闘手段」としてのウルトラマンがカッコよく敵や怪獣を倒すからこそ、「普通」の作品が「とても面白い」作品になると思う。怪獣にはちゃんと出現する理由があり、人間には戦う理由があり、物語の方向性にもちゃんとした理由があり、それらがバランスよくミックスされた物語が僕は見たい。ウルトラマンがピックアップされすぎて他が蔑ろにされてしまうと、どうしても作品を観賞したときの「チープ感」が否めない。ニーズを満たすことに特化しすぎて、「こういうのが見たいんでしょ?」という制作者の意図が感じられてしまう作品は、僕はあまり好きではない。自分が選んでいるのではなく選ばされている感じがあるからだ。自分の意思ではなく、他人の意思によって搾取されている感無意識に感じるからかもしれない。ちょっと表現が大袈裟になったかもしれない。

 

いつも書いてて思うが、タイトルと記事の中身がそこまでマッチしていないような気がするんだよな…笑。

ウルトラマンが物語の主役という点で考えると、設定でウルトラマン人間の体(他人の体)を借りず自分で人間態となっており、なおかつその人が主人公の場合(ウルトラセブンとか)だとしたら、ウルトラマンは物語の主役だ。一方で、初代ウルトラマンのようにハヤタというウルトラマン本人と主人公(変身者)の精神が別であれば、ウルトラマン自身は物語の主役というより戦闘手段、と見ることが出来ると思う。まあどっちがいいとか悪いという話でもないが。

ただ、ウルトラマン本人が人間態となっていたとしても、姿は人間だから、人間態の主人公を巻き込んだドラマを展開したとしても、思考回路などがあまりにも人間に寄りすぎてしまうのでは、とも思う。ちなみにウルトラセブンは小学生で見たきりなので物語の詳細はあまり知らないのと同じです。

 

総論とすると、キャラ売りはあんま好きじゃない、魅力的なシナリオ絡め魅力的なキャラを作る作品の方が自分は好きだとわかった、ということだった。

【ポケモンGO】ポケモンGOは好きなようにプレイすればいい

ポケモンGOの公式Twitterやそツイートに対するリプライとか、YouTuberの動画やサムネを見ていると、ポケモンGOで行われるイベント全てこなさなければいけないような感じがある。確かに、イベントでは通常より美味しいボーナスがあったり、レアポケモンが捕まえやすくなったりする。でも、リリース当初から今日までプレイしていて思うのは、ポケモンGOのイベントは通常では「出にくい」ポケモン出やすくなったり、アイテムがいつもより「多く手に入る」といった内容がほとんどである。また、だいたい1か月ごとに入れ替わる伝説レイドの対象ポケモンも、不定期で復刻したり、スペシャルリサーチの対象になったりしている。初めは伝説のポケモンはレイドしかゲット手段がなかったが、今ではGOバトルリーグの報酬になったりしている。

 

これらのことから言いたいのは、レアポケモンはイベントに参加できなくてもいずれまた入手機会は来るし(図鑑も揃う)、アイテムも課金は入手までの時間短縮なだけであり通常プレイを続ければそのうち手に入る、だから焦ってやらなくてもいいのではないか、自分のかけられる時間の範囲内でプレイすればいいのではないか、ということである。なんというか、そんなカッカしながらプレイしなくてもいいのになって思う。そして、ある程度は自分の状況を省みて妥協することも必要だと思う。

 

田舎でレイドが成立しない、ポケストップがない、ポケモンが出ないというのはよく聞く。ならば、それは仕方ないことなのだ。都会の方が有利かもしれないが、ナイアンティックも神ではないし万人が納得できる調整はできないだろう。田舎でプレイに不満があるのなら、時間を見つけて都会やちょっとしたスポットに行くのが結局は最適解だろう。ポケモンGOは現実世界を冒険するためのツールである。新たな人との繋がりを作るゲームである。ポケモンのため出かける中で初めて発見することが必ずある。ポケモンGOをやり続けたことで、何かのきっかけで同じ様にプレイしている人と親しくなることもある。このゲームコンセプトとして、このゲームは1人でコツコツやるよりもみんなでやってくれ、というのがある。ナイアンティックがそういうスタンスをとっている以上、今後もゲームはそういう方向にアップデートされていくだろう。その方向が好きではないなら、やれることが限定されても仕方ないのである。いちいち移動するのが面倒だ、というならその行動範囲内でやるしかないしそれが不満ならポケモンGOをやめた方がいい。世の中にはポケモンGOより面白いコンテンツは山ほどある。都会がズルいというのなら、ポケモンGOのために自分の生活圏を都会に近づけるしかないのである。諸々の事情で出来ないなら、その範囲内で楽しむ努力をした方がいいと思う。

 

それと、多くの人が気にする個体値だが、よっぽどバトルに拘らなければ意味ないし、個体値100%だったとしてもその個体値を活かせるのはそのポケモンをフル強化した時だけである。旅行した先で捕まえた好きなポケモン、誰かと一緒にプレイした時にたまたま捕まえたレアポケモン、それらを相棒機能で触れ合ったり、強化してバトル使ったって何も問題ないのである。いいGOスナップショットを撮れるよう工夫するのも面白いかもしれない。みんながみんな同じようにプレイする必要はない。ポケモンGOは電波さえ届けばどこでもプレイできる。

 

それと疑問なのが、ナイアンティックは儲けるためにプレイヤーをあの手この手で課金させようとしている、という意見である。このゲーム、無課金でめちゃくちゃやれることいっぱいあるのに、なぜそんな発想になるのか?「企業だからプレイヤーの満足度より利益を取るのは当たり前だろ、何言ってんだ」というのも納得できない。確かにポケモンGOの維持にはお金が必要だが、そんなにひどい誘導だろうか?目玉のレイドボスは1か月くらいで入れ替わるからGOバトルリーグの報酬も別の方法で手に入るものばかりである。ワシボンとかマスクドピカチュウもそのうち別の方法で手に入るようになると思う。すごい技マシンも、そのうち手に入るだろう。

 

ここまで書いてきて、そんなに気になるならやっぱり自分情報を見に行く回数を減らして、自分が嬉しかったことは素直に喜んでプレイしていくのが1番楽しいだろうなと思った。もっとやりたいと思えば時間をかけてプレイすればいいし、乗り気じゃない時なら他のことをすればいい。そして、これはゲームなのだ。良くも悪くも、ゲームなのだ。ポケモンGOを通して、他に面白いことを見つけたならそっちをやればいい。また気が向いたら戻って来ればいい。きっとそのうち初心者や復帰勢に優しいイベントを開催するだろう。ずっとポケモンGOをやってきて思うのはポケモンGOの懐に深さである。こんなゲーム、なかなか無いと思う。