この海に居ること

人生ゲームの消化試合

死はエンターテイメント

フィクションに触れる時、そこには多くの登場人物の死が存在する。人が死ぬ作品は、結構ある。多くの人にとって、登場人物の死は衝撃的であったり、あるいは感動的であったりする。しかし、いつからか僕は登場人物が死ぬ時、その周囲の人間の心情を考えるようになってしまった。そうやってみると、意外と親しい人間の死を短期間で割り切ったり、すぐに処理(いい意味で)している描写は結構ある。

 

人はどうしても自分が感じる感情を他人も同様に感じると考えがちなので、人の死が演出される作品に対して勝手に違和感を抱くことが多い。するとどうなるかというと、楽しめる作品が減ってしまい、楽しいと感じるものが減り結果的に幸せな感情からは遠ざかっていく。でも、「いやいや立ち直るの早すぎでしょ」とか「簡単に人死にすぎでしょ(戦争モノじゃなかったりするのに)」とか思ってしまうのである。

 

ウルトラマンネクサスでは、主人公孤門の付き合って半年ほどとなる恋人が殺されてしまうのだが(交際時生死はさておき)、悲しんではいるけど立ち直るの早いな、とはちょっと思ってしまった。特に後半で溝呂木と再会した時に、孤門は「お前を殺してもリコは戻らない」と言うのだが、確かにそれはそうなんだけど、それを完全に自分の中で処理して納得できる状態にするのってすごく時間がかかりそうな気がするんだよな。

 

Zガンダムだと、アムロララァの死を受け入れるのに7年かかった上それは地獄のような日々だっただろうと言うシーンがある。ララァアムロの恋人ではないが、ニュータイプどうしで交わした心の交流があり、それは他の人間と交わす交流とは大きく異なりアムロにとって特別だったということになる。現実の死別経験者も、7年経てば受け入れられる人も出てくるだろうが、悲しみに慣れただけで愛する者の死を受け入れられないという人もおそらく存在するだろう。それぐらい、大切な人を失うというのは、遺された人間にとってはとても苦しい時間をもたらすものなのである。

 

二度と戻ってこないから、あるいは死んだ人間の分まで頑張ると自らを奮起させる描写も漫画やアニメで見受けられるが、目の前で恋人であれ友人であれ恩人であれ大切な人を失うということはそうそう手に負える事態ではないと思う。Zガンダムを見てて、フォウを失ったカミーユが敵が来ているのにその場から動けなくなったのもいい描写だったと思うし、いろんな人を失う中でそういう苦しい感情を押し退けて戦闘を続けた結果あの最終回になるのなら、自然な終わり方だとも思う。それくらいの代償が必要なのだとも思う。

 

殺人事件系フィクションも見るのがキツい。毎回いろんな方法で人が死ぬ。それらを見てしまった人は、もし死別経験者であれば自分の経験した死別との共通点を無意識に見つけてしまうだろうし、また死についてその人固有の考えに思いを巡らせることだろう。そういう状態辛いに決まっている。ただ、辛いから辛さから逃げるために全てを忘れようとするのもさせるのも違う。

 

自分の知っている「死に方」が作品内でどういう扱い方をされるにせよ、そういうので傷付く人も一定数居ると思う。嫌なら見るな、で片付けられるほど単純ではない。なぜならフィクション内の死を特に何も感じず見られる人でも、いつかは誰かと死別経験をし、同じように耐えられなくなる可能性だって十分あるからだ。人は誰でも必ず死ぬ。どんなに仲の良い人でも、どんなに心を通わせた人でも、いずれは死んでいく。

 

この世界では、自分の身近な人が死ぬ経験というのは基本的に若いうちはあまり起こらない。身近であってもその人とそんなに親しくなかったりする場合もある。しかし、ニュースでよく流れるようにこの世界はいろんな死で満ち溢れている。そしてその分の悲しみが存在している。多くは目に見えないだけで。まるで自分死と無関係なように思っている人もいるかもしれない。あるいは死について特に考えていない人の方が圧倒的多数だろう。でも一度、死を身近に経験してしまった時、世界は一変すると思う。自分とは無関係なところにある(と思い込んでいる)死をエンターテイメントとしている作品を見た時、どうしてもやるせない気持ちになる。もうコナンは見られない。