この海に居ること

人生ゲームの消化試合

最終的に待ち受ける死

この社会(少なくとも日本)では人は誰でもいずれ死ぬということが忘れられがちである。人の死があまり身近にないからだ。一生の前半で経験する印象的な死は、祖父母や両親一般的であろう。ある程度歳を取れば自分の周囲の同世代でも早死にをしていく人が現れ始めるだろう。また、それ以前にも不慮の事故等で友人や親しい知人死ぬこともあるだろう。しかし、家族が死ぬといっても、普段の生活を共にしていなければ死んだ時は悲しいかもしれないが、再び自分のの生活に戻っていくだろう。

 

両親祖父母は自分より年上なので、死んだとしてもそれはある程度は当たり前のことであるから受け入れられやすい。死の理由を、自分自身納得しやすい。友人知人が死んだとき、人によって家族の死よりも衝撃的だろう。一般的には精神的な距離は家族よりも家族以外の人との方が近いからだ。しかし、その友人知人も、多くは普段の生活を共にしているわけではない。基本的に自分の毎日の生活に干渉してくることはないため、死んだ時は悲しいがやはりそう遠くないうちにやがて自分の生活に戻っていくだろう。誰もが死に向かって真っ直ぐ進んでいるのに、この社会ではそれを忘れさせてしまうくらい目の前にいろんなものが次から次へと流れてくる。仕事、勉強、ニュース、趣味のこと…。ひとつの死に構い続けてていられないのだ。本当はもっと悲しくても、周囲は悲しむことを許さない。前を向きな、いつまでも悲しんでいてはあの人も浮かばれないよとか、泣いたって戻ってくるわけではないからあの人の分まであなたが生きなきゃ、とか言われる。一般論だからなんとなく自分もうっすらそう思い続けているから、周囲の言葉を「ありがたい励まし」として受け入れようとしてしまう。そして自分もそのような言葉を誰かに言う。僕らは忙しいのだ。人が死ぬのなんて当たり前だし、そのことで何日も仕事とかを休まれると迷惑をかけてしまうと思ってしまうし言われる。葬式が終われば翌日からは「これまで通りの自分」を周囲から求められる。

 

でも、人が死ぬということは、そんな日常の中に埋もれていく程度のことなのだろうか。十分に悲しむ間もないほど忙しい世界は、悲しみを押し殺してまで維持し続けてはいけない世界なのだろうか。どんなに自分が誰かの迷惑にならないようがんばったとしても、その誰かも自分もいずれ死んでいく。成長を夢見て必死に毎日何かに取り組んでも、いずれは死ぬし死んだら自分の中にあるもの全てが無に帰すのだ。自分に関わりのあった人が無に帰した時、その儚さに立ち止まらずにはいられないだろう。自分もいつかこうなると思うと怖い気持ちも湧いてくるかもしれない。

 

どうもこの世界は悲しむことはよくない、ある程度悲しんだら切り替えて日常を頑張って生きないといけない、という風潮があるように思う。自分もいつか死ぬということが本当にわかっているのだろうか。なぜ、悲しんで手を止めることの何がいけないのか。僕たち人間は感情の生き物だ。程度の差はあれ、大切な人が死ねば悲しいに決まってるんだ。そして、その悲しみをやりこなすのにかかる時間は人それぞれだ。事務的な休暇をこなせば終わるはずがない。みんなそうだから我慢しろ、というのがおかしい。なぜみんなで苦しくなる方向へ進んでいくのか。死に方にもいろいろある。それによっては自分自身も深く傷付くことだってあるはずだ。決して前の自分には戻れないくらい傷付いても、それは自分以外の人には目で見ることができない。目に見えないことを僕らは軽く見てしまう。なんだ、意外と元気そうじゃないかと。人の心の内など見ることができない。そのために僕らには想像力がある。でも僕らの想像力は自分の経験した以上のことは曖昧にしかわからない。想像できたとしても、やっぱり相手の本当の心の内はわからない。

 

ひとりぼっちじゃなくても、生きて死んだらそれで自分にとっては終わりなのだ。いつか死ぬのだと思うと、世の中にはどうでもいい争いがいっぱいある。クソみたいな大人の事情がいっぱいある。そんなクソみたいな大人の事情に巻き込まれて命を落としていく人間もいる。彼らは何のために死んでしまったのだろう。死んだらもう生き返ることはできないのに。この世界は悲しみに溢れているのに、何かがそれに蓋をする。