この海に居ること

人生ゲームの消化試合

お金を使うことに罪悪感がある

昔からだが、何故かお金を使うことに罪悪感がある。別に無駄な高価な買い物をしたわけでもないのに、必要なものを買っても使ってしまったことを後々考えてしまう。「これはお金をかけていいものなんだ」と思える時が少ない。自分働い手にしたお金なのに、そう感じてしまう。どう使うかは僕次第なのに。

 

きっとこれの原因は、母親がいつも「お金がない、お金がない」とか、僕が買ったものに対して「またそんなの買ったの、もったいない」とか言われ続けたことによるトラウマみたいなもんかなと考える。浪費癖がないといえば聞こえはいいかもしれないけど、ここぞという時に思い切って使えない。そして僕は何か欲しいものを買って自分の生活が一変するのを恐れている。それ以外にも、環境が変わることを恐れてしまう。不変ものなんてこの世界には何一つないのに。この辺りも、思えば心配性の母親の元育てられたからなんだろうなと思う。大学に行けたのは祖父の援助をもらえたからだ。それまでは、あなたを大学に行かせるようなお金はこの家に無いと言われ続けた。受験生だった高校3年生の時の思い出は、苦しいものもたくさんある。

 

大学では独り暮らしをしたけど就職を機に実家に戻ってきた。戻るべき理由があったのだ。しかし、4年間の独り暮らしは僕の精神の自立を促していたと思う。実家に戻ってきてからそのことに気が付いた。知らず知らずのうちに親の精神的束縛を解いていたのだと。でもそれは完全には終わっていない。そしてまた実家に戻って数年が経つ。親を見ていると、哀れに思うことが多々あるけれど、それでもかわいそうに思い放っておくことができない。僕は自分の人生を生きるために、親から覚悟を持って距離を置くことに踏み出せずにいる。自分が我慢をし続けていると感じる。親の顔や言葉が届く範囲だと、体が親の期待に沿わなくちゃいけない、親を悲しませてはいけないという方向に動いてしまう。

 

やっぱり、ある程度歳を行ったら親と子は離れてそれぞれの人生を送るべきなんじゃないかと思う。親のためにも子のためにも。いつまでも子に干渉し期待を吹き込み続ける親では、子の主体性を殺してしまいがちだ。でもそれは親自身の精神的な問題でもある。自分に自信が無いから子に自分のできなかったことをさせたい。子どもくらいしかまともに話せる相手がいない。何かあると全部自分が悪いと思い込む親。こんな親を見ていると、この先の僕の人生はどうなってしまうんだと感じる。でも、この親でも悲しませたくないとも感じてしまう。

 

あーあ、せっかく時間があるのに、なんだかあまり気分が浮かない日々が続く。お金も時間も自分の味方につけて、自分の人生を歩みたい。