この海に居ること

人生ゲームの消化試合

大学時代の友人と話すのが1番楽しい

大学時代の友人とオンライン飲み会をした。メンバーのうちの1人は卒業後も何回か会っており話している。中学、高校の時と友人はそれぞれいるのだが、大学時代の友人と時間を共有する時が1番「安定感」があって楽しい、と感じている。もちろん1番楽しいってだけで中学高校の友人と話すのがつまらない訳ではない。しかし、大学以外の友人と話をしている時、「なんか違うな」という妙な違和感を感じることは多い。特に就職してからは高卒の人との間にコミュニケーションの壁を感じた。同期の高卒はやっぱり高校のノリのままって感じがするし、自分はなんかそういうのはもう終わったんだよなって感じてしまう。個人的な観測範囲だと、高卒の人「こうあるべき」という価値観を押し付けてくる人が多かった。まあ大学でも結構そういう人もいたので世の中一定数いるかもしれない。

 

大学まで行くと入った学科は幸運にも僕は第一志望だったため、「やりたいと思ったことがやれる学部」で入学できた。となると、根幹の興味や考え方は似通っている者が集まりやすい。根幹の興味というのは一生を通しておそらく興味を持ち続ける分野という意味で、自分のアイデンティティの主たるひとつである。自分の多くを占めている領域とでも言うべきだろうか。だから、話も合いやすいし考え方も違いはあるけど価値観を共有しやすい。自分常日頃関心を持つことについて話しやすいし相手もその領域の「共通言語」が通じるため、相手の話を聞いていてもとても楽しい。楽しくコミュニケーションができる。相手の興味ある話題に合わせ続けたりとか、正直あんま興味ない話聞いていなければならない、といったことが起きにくい。まあ、そんな無理してコミュニケーションするような人は真の友人じゃないという意見も最もだと思うけど、本当にコミュニケーションできる友人は1人だけだったとしてもいいと思う。その人と交流することはすごく自分にとって良い作用を与えていると思う。

 

自分の人生に良い影響を与えてくれる人に多く巡り会いたいものだ。そして自分が誰かのそれになれたらいいとも思う。人と話すというのはなんて刺激あることなのだ、と思う。集団の中にいれば1人でいたくなるくせに、ずっと1人でいて誰かと話すと「話せてよかった」と思ってしまう。僕はなんて勝手な生き物なんだ。どうして人間は「話したら楽」になるのか。どうして1人だけで悩みを晴らすより誰かと一緒の方が乗り越えやすいのか。どうして僕らは人と関わりたくなってしまうのか。真に分かり合える人間はこの世にいるかどうかもわからないのに、人と人で傷付け合うこともザラなのに、どうして僕らは1人では生きていけないのか。1人生まれて1人で生きて1人で死ぬことが、どうしてできないのか。誰かと出会えば別れはあるし、関係が親密になるほどに死という別れが辛くなるだけなのに。人は死んだらもう会えないのに、そしてそれは何より苦しいことなのに、どうして僕らはそんなことを考えず誰かと関わってしまうのだろう。僕が死ぬときは、誰からの記憶からも消えて誰も悲しませずに苦しませずに死んでいきたい。