この海に居ること

人生ゲームの消化試合

新しいものばかりの世の中で、大切なモノは何なのか

現代は大量の情報があちこち飛び交う社会で、目にするいろんなものから目新しい情報が入ってくる。取捨選択するのは紛れもなく自分なのだが、多くの情報の海に浸かっているうちにどこまでが自分の考えで、どこからが外部からの情報なのか境界線が曖昧になってくる。自分の望むモノが自分が心から欲しいと思ったモノなのか、欲しいと思わされているモノなのか。友人、先輩や後輩、自分の好きなアーティストなどが良いと言っているので欲しくなったものの自分の生活スタイルに落とし込むと本当は不要で、でもそれに気付かなかったり。

 

大量消費社会なので、次から次へと新しいモノが溢れてくる。欲しいと思っていなくても、便利なので使い始めるとやめられなモノもある。あの手この手でマーケティングがなされる。出来るだけ、多くの人に買ってもらえるように必要以上に新商品や新サービスがいいモノのように謳われる場合もある。でも誇張された情報を得てから実物を見てもやはりソレには相応の価値がないので「騙された感」が残りやすい。そんなモノが、世の中いくらでもある。今度のがダメだったらまた別のモノを買えば良い、という考えも生まれる。

 

思うに、今の世の中ではひとつのモノを大切にする期間(スパン)が以前より短くなっているのではないか、と思う。以前、というのも曖昧な言い方だがこの10年20年でだいぶ短くなったのではないか。SNSやネットの普及、インフラとして黎明期を超えほぼ定着することで人々の話題の旬が非常に短期間になっていると思う。確かに、いろんな面白そうなモノや凄そうなモノ(製品以外にも体験も含む)がより大量に可視化されているので目移りするのは普通だ。あれもしたい、これもしたいという欲求に具体的なイメージが伴いやすくなっている。そうなると、ひとつひとつの製品や体験を堪能しきる前に、一通りモノに対して「体験」してしまう。すると目新しさがなくなり「次」を求める。全てを「体験」しきれないほど、「次」がいくらでもあるからだ。ひとつの「モノ」を味わい尽くす(例えば漫画であれば2周目で気付く発見、それらによる作品に対する「好き」という気持ちの深まり)前に新たなモノを求める。

 

書いていて思ったけど、「狭く深く」じゃなくてあらゆるモノに対して「広く浅く」に世の中がなってきているのかな。コスパ重視で、ひとつのモノにこだわり続けることよりも短時間でより多くのモノをこなすことが良しとされる。必然的にひとつひとつの事柄に対して使える時間が短くなるので、ひとつモノに対する理解度の深みはなくなりがちだ。

でもどちらが良い、どちらが悪いということではない。今の世の中の流れ、時代はそういう時代なのだ。0か1かの二元論をしたいのではなく、この「狭く深く」が失われつつあるのではないかと思う、ということを書きたかった。自分の中にも、特定の分野に関する興味は「広く浅く」のものもあるし、かたや特に好きな趣味では「狭く深く」関わるものもあるかもしれない。でもそれらがすべて「広く浅く」だったら?僕は、「狭く深く」関わることのできるモノを持ちたいのだ。自分が本当に大切と感じることまでを「広く浅く」の体験で消費して、過去のモノとしたくないのだ。僕の人生に深みを増すために、いずれ死んで100年後にはそれすらも忘れ去られる僕が、生きていて良かったと思えるために。