この海に居ること

人生ゲームの消化試合

退屈な時間も人生に必要ではないか

今の仕事をしていて思うが、本当にじっくりとなにかを考える時間がない。

朝起きてぼんやりとした頭で朝食をかき込んで出勤する。僕は30分程度の車通勤だが、運転中は運転に集中しなければならない。音楽を流したとしても、音楽に集中できるわけではない。電車通勤だと、朝の通勤時間帯は混雑していて、ゆったりとした出勤というわけにはいかない人も多いだろう。駅にも電車にも大量の広告があり、あれをしろここへ行けなど様々なことを煽られる。

 

仕事中は常に目の前の仕事に追われている。定時で終わらなければ残業だ。我が社はどこの部署もギリギリ足りないくらいの人数しか配置されていないので大抵の部署で大抵の人が残業している。残業にも程度があるが、残業しただけ自分の時間は削られる。

慌ただしく仕事をして疲れないわけないので、帰宅しても何かをする気力はあまりなく、少ない気力でできる程度のことしかできなくなる。例えば、YouTubeを流し見る、ネットサーフィンとか。個人的にアニメやドラマは1話あたりの時間が決まっているのとどうしてもその時間中は多かれ少なかれ集中が必要とされるので平日はあまり見られない。漫画や読書は、自分から読みに行かないと行けないので結構気力を使う。

 

そうして平日が終わり休日が来る。平日より圧倒的に短い休日を有効に使わなければならない、と考える。そう、僕たちは常に効率やコスパを意識しているしさせられているのだ。暇な時間はもったいない。退屈な時間を過ごすくらいなら楽しいと思えること、自分にとって役立つことをしなければならない、と。仕事においても、常にコストダウンつまり効率化を模索するよう言われるしそうした方がいいと考えながら、でもこれ以上どうやって省力化するのか終わりなき戦いを強いられる。

 

どこもかしこも広告だらけで、各季節のイベントごとに何かをしなければならない、こうあるべきというのをいろんな方向から感じる。そうしないといけない、そうでないのはみんなと違うからダメなのかな、という気すら起きる人もいるだろう。世の中は様々な消費欲を駆り立てるものでいっぱいで、よく考えれば自分の人生にそこまで必要でないものも必要であると思わされる買ってしまう。あまり必要でないから結局そんなに使わない。でもせっかく買ったのだからと使おうとしてしまう。でもやはりしっくりこない。こういうのって本当に無駄なんじゃないか。これが豊かな人生と言えるのだろうか。

 

僕らは、立ち止まって考える時間がない。振り返る時間がない。世の中がさせてくれない。自分が本当にしたいと思っていることがなんなのか、日々考える時間がない。そうやってなにかを考えることは「無駄」なのだろうか。仕事もプライベートも余裕のない人が多いだろう。余裕がないくらいやり続けることがあることだけが豊かな人生なのだろうか、そういう人が多くいる社会が豊かな社会なのだろうか。漂う疲労感、閉塞感、不安感。お金だけあれば豊かになれるのではない。遊びを持たせてちょっと退屈な時間がある方が、いいのではないだろうか。