この海に居ること

人生ゲームの消化試合

両親という檻

僕たちはだいたい親に育てられて育つ。また、血の繋がった親ではなくても誰か大人に育てられる。それはまだこの世界について何も知らない赤ん坊の時から既に行われる。僕たちの社会では親が子を育てるのは当たり前だが、これって「正しい」のだろうか。「育てて“もらった”恩を返す」などという表現があるが、「なぜ」僕らは親やそれに相当する育ててもらった人に恩を返す必要があるのだろうか。いったいその人に育てられたことで、自分の人生は本当に幸せになっているのだろうか。

 

人は、他人の気持ちを思い遣り考えるときに「自分だったらどう思うか」ということを基準に考えがちである。「ヒトの気持ち」において、確信を持ってわかるのは自分の気持ちだけだからだ。そして、自分は〇〇と思うから他人も〇〇と思うに違いないと意識的あるいは無意識に考える。そして、自分にとって正しいことは相手にとっても正しいと思い込み、しばしば価値観を押し付ける。相手の価値観が違っていたり自分の想定とは異なる方へ傾けば、それは間違っていると否定する。親子においてよく起こる問題である。しかしこれを多くの人は問題だとは思わない。親gq子を育てしつけをするのは当然だし、一般常識とされる多くの人が遂行している行為の範囲内であればそれは「正しいこと」とされる。

 

歳を重ねるにつれ関わる人も相対的に増えていくが、そういう人達や過去の自分を振り返ったとき、そこには「全てを完璧に正しくこなす完璧な人間」というのは存在しない。人によって取り巻く環境は大きく異なるので、誰かの「正しい」は自分にとって「正しい」かどうかはわからないからだ。特に自分を振り返ると、つくづく未熟だったと思う。まあ、成熟した人間の定義も定まっていないが。そんな、不完全で未熟な存在である僕たちが、他人を導いたり育てたりできるほど素晴らしい人間なのだろうか。子どもという、ひとつの新しい命を生み出すとき、そこには生まれてくる子どもの人生は熟考されているだろうか。生まれてくる人間の幸せは保証されているのだろうか。存在すらしていない子どもの意見は聞くことができないから、全ては親や大人たちの都合で子ども達は生まれてくる。望んだわけでもないのに生まれてきているわけだ。宗教的な話は信じない。僕は科学を信じる。生まれて数年のヒトの子はたった1人では生きていけない。大人の助けが必要となる。どんな人間でもだ。つまり、子どもが生まれて育つためには親や大人たちの助けは必要不可欠であり、「育ててもらった恩」とは次元の異なる話である。世界を何も知らない子どもを生んだのだから、その子を育てるのは当然の義務である。なぜそこに恩を感じる必要があるのか。生まれたいと願って生まれてきたわけではない。気付いたら既に命を持って存在しており、そしていろんな社会の都合を押し付けられる。それらにそぐわなければ、傷付けられる。僕らは何のために生まれてきたのだろう。

 

親は、その子に対し様々な期待を寄せる。自分の達の願望を押し付ける。親だけではなく、祖父母や親戚、学校の先生などもだ。「これをやってはいけない」「こうしなければいけない」という基準は、世界共通ではなく大部分がその親に委ねられる。世界を何も知らない人はその親の言うことに耳を傾け影響されるしかない。そして、親の主義思想で形成された思考の檻が出来上がる。当事者の子ども自身は、自分が檻の中にいることもわからない。子どもにとってはそれが世界の全てだからだ。子は親の鏡だ。しかし子どもには子どもの人格があるので、自分を保ちつつ親も受け入れようとしてしまう。2つ以上の人格を1つの体に入れようとしてしまう。正常であれば、1つの体には1つの人格しか入らない。そこで、子どもに自立心が芽生えてくると子どもは苦しむ。親が求める自分と、自分の望む自分が違うということに苦しむ。でも、今まで親の人格や価値観を自分の中に受け入れすぎてしまい、自分だけの人格を確立させ方がわからない。親にとっては何歳で自分の子は子なので、どんどん子の心に入ってくる。親の気持ちを気遣う優しい子どもほどそれを否定できない。否定される辛さは自分自身がよく知っているからだ。

 

親による子育ては、人間の可能性をかなり押し殺していると思う。子どもの発想はつまらない常識に縛られた大人から見れば馬鹿げたものも多々あるかもしれないが、僕らが失った想像力を持っている。ただ一方で、いじめに代表されるように子どもならではの残虐性も併せ持つ。彼らに他人も自分自身傷付けさせず伸びやかに育てるためには僕ら大人がそういう社会を用意しなければならない。世の中で当然とされていることに対して、「なぜ」と考え続けると、本当にそれを守ることで皆が幸せになれるか疑問もある。

 

僕たちの命はいずれ終わる。人生に意味はない。死んだら無になるだけなので生きて幸せになってもそれは死とは無関係の場所にある。でも、僕は幸せになりたくないと思ってしまう。まだ死にたくないと思ってしまう。命とこの肉体の檻の中で、今日も生きてしまう。