この海に居ること

人生ゲームの消化試合

誰のためにブログを書くか、そして文章を読まない人、読む人

ブログを書いていて思うのは、そういえばこの文章は誰かに向けて書いているのだろうか、ということである。当然、ブログという形式をとっているので自分以外の人にも見てもらいたい、という思いはある。しかし、「読みやすい文章」「読んでもらえるようなわかりやすい文章・編集」というのを僕はほとんど行っていない。自分の記事を後から読み返すと、言いたいことがイマイチうまく表現できていなかったり、わかりにくい文章だな、と思うこともある。しかし実際書いていると次々と言葉が浮かぶ。文章の構成を気にするよりも早く言葉を書いておきたくなる。浮かんでくるものを書き起こすだけで今は精一杯だ。じゃあ、このままでいいか。とりあえず続けよう。

 

ただ、このブログを始めた時は、誰かが僕のブログを読んで、僕の書いたことに共感することで少しでも気分が楽になったりするのの手助けになればいいな、とも思った。そういう文章を書くなら、もっと他人に寄り添い他人の心を掴む文章を勉強練習しなければならない。まあ、そこまでいくのはまだ自分には早いかなと思うのでひっそりとこのまま言葉にしていこう。だったら個人的な日記として非公開でいいかもしれないと思うがまあその辺は深く考えないでいこう。

 

誰かに文章を読んでもらう、というのを意識し出したのは大学生の頃からだ。僕は理系で、研究室では定期的に自身が興味のある英語論文を日本語に翻訳し、内容を研究室メンバーに発表するという場があった。僕の作ったスライド資料や発表原稿を先輩に添削してもらうときに必ず言われたのが「文字が多い」ということだった。自分なりに見ている人にもわかりやすくしようと工夫したのがかえってわかりにくくなっている典型である。それから口頭で発表するのも苦手だった。まあ得意な人はどちらかといえば少ない方かもしれないが、「自分の思っていることを他人に伝えるのが苦手」で、「情報量が多すぎる」という問題点を抱えていた。社会人になってからも、「前置きが長い」とか「いいから本題に入って」とか、「君の文章はごちゃごちゃしている」ということを何回も言われた。自分では、注意して一文一文を短くしかつ初めて見る人にもわかりやすいように努力し続けていたつもりだったが、どうやらそれはなかなか身を結ばなかったらしい。

 

そんな中、顧客や社内から来たメールの内容について上司や先輩などいろんな人と話したりやりとりをしていく中で、気づいたことがある。世の中には、どんなに短い文や、どんなにわかりやすい文章でも読まない人がいる。はたまた、自分のように、よくわからない文章を書く人もいれば、送られてきたよくわからないメールでも必死に読み込んで解読しようとする人もいる。そして、自分は文章を読むことにあまり抵抗がなく、長文でもとりあえず最後まで読んでみる。意味のない、緊急性のない文章で読んでしまう。本の「前書き」だとか、何かの「注意書き」とか、言葉が書いてあれば目に入ってしまうしそれを自分から読みに行く。つまり、文章を読む人、読まない人が世の中にいて自分はどちらかと言えば文章よく読む方だ。だから文章が一般に比べ多くても自分の中では許容範囲内であり、他人に何かを伝えるときに情報過多でまとまりがなくなりがちなのかなあ、と推理した。

 

世間的に好まれるのは僕のような白黒ハッキリつけない何言ってるかわからないごちゃごちゃした奴ではなく、短くきっぱりわかりやすく(そして白黒もはっきりつける)表現する奴だ。万人受けがいい。会社でも「簡潔に書け」よく言われるし、そういう文書の方が読みやすいのは確かだ。でも、かつてサカナクションの山口一郎氏が言っていた(僕はサカナクションのファンである)。「今の世の中、シンプルでわかりやすいものが求められがち。でも、僕らは難しくて面白いものを作っていきたい」と(こんなような内容だった)。わかりやすい文章も、わかりにくい文章も、この世に存在していていいのだ。簡単でわかりやすいもの=良いもの、難しくわかりづらいもの=悪いもの、ではなく、情報が多くてもそれと向き合い、自分から理解しに行く姿勢で「難しくてわかりにくいもの」と向き合っていく中で得られる発見もあると思う。そういうスパイスが、人生の幸せの鍵を握っていると思う。自分で考え行動に移した結果から得られる経験が、その人の人生に深みを与えると思う。難しいとかわかりやすいとかの基準は人それぞれだから、他人と比較する必要はない。いずれその比較する他人とは関係なく死んでいく人生だし、自分で自分を満足させられなければ誰も自分を満足させられない。

 

僕はいろんなことをあれこれ考えちゃう性格だし、言葉にすれば多くてごちゃごちゃしてわかりにくいという人間だ。でも、こうやって言葉にして自分自身の理解が深まっていくのなら、誰のためにもならないブログだったとしてもいいのではないか、そんなふうに思う。