生きていくほど悲しみの種類を知る
昨日とは違う悲しみを知る。人と関わるごとにその人特有の悲しみを知る。様々なフィクションに触れれば、そこでも悲しみの多様性を知る。自身に関係しそうなもの、あるいは直近では縁が無さそうな悲しみ。人の命はなんなのか。誰かを悲しみから救うために差し伸べた手でも、その人にとってはベストなサポートにはならないかもしれない。自分としては精一杯支えをしたつもりでも、相手にとっては見当違いな支えだったかもしれない。ありがとう、と言われても素直に受け取ることができない。それは自分が自分に嘘をついているからだ。誰かの行為に対して、本当はそこまで助かっていなくても、相手の気持ちだけに感謝して、相手の気持ちを慮って、「本当はもっと〇〇して欲しかったんだけどな」という傲慢な思いを押し込み、ありがとうと返す。そういう気持ちを知っているから、他人の感謝の気持ちを素直に受け入れられない。そして常に、自分が誰か困っているところを助けたとしても、本当の意味で助けられたのだろうかという疑問がつきまとう。人はあまりにも多様であり、その人それぞれの価値観が存在し、自分にとっての正しいが相手にそのまま通用するかどうかはわからないと思ってしまう。
誰かが困っている話を聞けば、そこからその人の悲しみを想像してしまう。なぜ、そのような悲しみが生まれたかを考えてしまう。そういう時、関わる人みんなが各々の正義に従って行動していることがある。みんな自身にとっては正しい行動をしてきたのに、誰か1人が悲しみを引き受けていることがある。でも、その人もみんなが「正しい」ことをしているからその人達が悪いというより自分自身の問題だと思ってしまうこともしばしばである。人は誰かに育てられて価値観を形成する。育てる人も誰かに育てられる。その人を育てた人も誰かに影響を受けながら育てられている。自分の行いが正しい正しくないと考える隙すらなく、無意識に当たり前のこととしてやってしまう。振り返るということは思考の外なのだ。ずっと連鎖している。どこかのタイミングで、誰かが傷付いているかも知らずに。
人間というのは、こんなにも悲しみを生んでしまうのかと嫌になる。物質や治安的には諸外国よりマシとされ一見平和なように見えるこの国でさえ、この国の社会ならではの悲しみが存在する。人によっては人生で知る悲しみよりも人生の幸せや生きがいが上回る人もいるだろう。だが、人生で幸せと思える時期ってのは、一体どれくらいあるのだろうか。一体いつになったらこの生きづらさは消えてくれるのだろうか。悲しみや辛さが幸せを上回った時、人は自ら死んでしまう。この世界が作り出す幻想に惑わされ、実態のないものに傷付けられた人間が自ら死ぬほど、悲しく遣る瀬無いことは無いと思う。毎年3万人程度の人が自ら命を絶っている。3万人といえばちょっとした街の人口程度ある。毎年だから、2年経てば6万人くらい、3年で9万人程度、となる。交通事故の死亡事故よりも圧倒的に多い。毎年、誰かの自死に巡り合う人が3万人以上はいるのだ。亡くなるその人に距離が近い人ほど心に傷を負う。距離が近くなくても、亡くなる人との関わり方によっては深く傷付く。毎年悲しみが生産されていっている。
自分が幸せだと思うには自分の行動に自分が納得できなければ無理だと思う。自分はこれでいいんだと思えなければ、生きていくことはとても辛くなるだろう。これでいいと思いたいのに、無責任な他人が邪魔してくるのザラである。悪意の邪魔もあるが善意の邪魔もある。どっちの存在もヒトという存在の悲しさを感じさせる。僕は、人と人は分かり合おうとすればある程度は分かり合えるけど完全には無理だと思う。分かり合えたとしてもそれは永遠ではない。
幸せは長く続かないから幸せなのであり、人と人は分かり合えず、それぞれの正義で身を守るしかないどうしようもない社会だけが存在する。そこで僕たちは知らない間に生まれ、なんとなく生きてそのうち死んで、そして忘れられていく。そんな儚い存在の人間が傷つけ合っているなんて滑稽である。