この海に居ること

人生ゲームの消化試合

溢れる情報の中で、自分の選択を信じる

このところどうも、自分の選択は自分自身が決めたのではなく誰かの影響を濃く受けているのではないかと感じることが多い。

例えばTwitterだと、タイムラインに今度こういう本が発売になります、という告知が著者のアカウントより出るとする。すると当然発売間近にはその告知も頻繁になり、発売後には「購入しました〜!すごく良かったです!」みたいなツイート・リツイートがタイムラインに増える。するとそれを見てるとなんだか自分も欲しくなり買ってしまう。本の内容は普通に面白く自分の興味と合致していてこれは買って良かったとなることもある。でもそれは、本当の自分が望んだ選択なのだろうか?僕が「これが欲しい」と思ったから買ったのではなく、みんなが話題にし、みんなが面白いと言ったから買ったのではないか?

このことは、例はTwitterだけど大なり小なりの規模で誰もが経験することではないだろうか。テレビで話題だから、友達が言っていたから…と言った具合に。

 

モノを買う、選ぶ時は、そういう選択も確かにあると思うしそういう経緯で出会ったモノが自分の人生により良い大きな影響を与えることだってもちろんあると思うけど、そういう選択の仕方があまりにも多いと、それは本当に自分の人生なのだろうかと考える。「誰かに選ばされ続けているのではないか?」と。

 

以前、「レビューで高評価のものを買うのは自分で選んで失敗したくないからだ」と何かに書かれていたのを読んだことがある。僕が挙げた例もそれに当てはめられる気がする。誰かが良いと言っていたから買った、もし自分に合わなかったとしたら、あの人が良いと言っていたのに微妙だったなとか、みんなが良いと言ってるんだから良いに違いないと自分に言い聞かせてモヤモヤしながらそのモノにこだわり続けてるかもしれない。

 

それは時間がもったいないと思うし、自分が買った責任を誰かのせいにしていると思う。

だから、失敗だったなと感じても深く考えず、次のモノへ興味が移ろいでいく。

 

自分が買うもの、自分の時間の過ごし方は、自分が良いと思ったことをすれば良いと思うしもしなんか違うと思ったら、何に違和感を感じたのか立ち止まって考えることもいいと思う。今の社会だと、立ち止まる時間・じっくり考える時間が勿体無いみたいな風潮もあるけど、そういう生き方は遠回りなようで、自分の人生の幸せのためには必要だし近道だと思う。

 

自分が良いなと思うモノは自分にしかわからないし、やりたいことも自分の中にあって、それは必ずしも誰かが教えてくれるモノじゃない。自分の望みは自分の中にあるから、それに従うことを少しずつ許していけば良いと思う。自分の中のことだから、失敗・成功の判断は自分でしかできないし他人にその判断を下されることもない。それに、自分の望みに従うことで、失敗することはまずない。なぜなら自分自身がしたいことをするだけだからだ。