忙しいことは充実していることとは違うと思う
ブログを書くということは、自分の考えていることを言葉にする、外に出すという意味でアウトプットだと思う。ここ2ヶ月ほど全く更新していなかったのは単に若干の飽きを感じていたのと受動的なコンテンツ(YouTube、Twitterとか)で時間を使いがちだったからだ。それは、仕事が忙しくて帰ってきて何かアウトプットしたくなる気力もなかったからだ。
仕事が忙しいと、その内容が好むと好まざるにか変わらず(村上春樹っぽいね)時間がかなり早く過ぎていく。面白いと思っていても仕事中なので多少の義務感はあるし、次の段取りも考えなくてはならないからそればっかりを8時間やれるわけではない。やりたくないこともいやいややるしあるいは思考停止してやっつけ仕事でその場を乗り切る。そうして月曜日から金曜日が終わる。5日間もの時間が、矢のように過ぎ去る。土日の2日の休みは2日しかないし、どこか行こうと平日にモチベーションを保っていてそれを実行に移したとしても、たった2日では行動しただけで終わる。
いい経験も、微妙かなと感じたことも、振り返る時間もなく次の平日が来て頭の中は仕事に奪われる。
どうも僕たちの社会は、考えるよりも次々に行動を起こすこと、じっくりゆっくり時間をかけることよりもせかせかと何かをやり続けることの方が良い、そうしなければならない、みたいな思想が幅を利かせているように思う。電車の中、インターネットの検索結果、ホームページ内、YouTubeに至っても広告だらけだ。あれをしなさい、これを買うといい、みんなこうやって過ごしている…うんざりだ。僕たちは常に何かをして、何かを欲しいと願いあくせく働いてわずかな給料を週末にばら撒くことだけが人生なのか。
最近、時間が過ぎるのが早いと人に言えば、それだけ充実しているってことじゃん良かったねと言われる。平日がすぐ過ぎるってのはいいことだと思う、と言われる。でも、平日より休日のほうが少ないしその分わけもわからず忙しさで人生がなくなっているんだ。それが、少なくとも誰かのためあるいは確実に自分のためとなっているのならこんな記事は投稿しないだろう。社内のしょうもない上司間の人間関係のために作られるあまり意味のない仕事、社外のためではなく社内のための仕事(総務部のような仕事ではなく根回し・担当範囲外の仕事)のために自分のの時間と労働力、すなわち人生の資源が使われていると思うと府に落ちない。
こうして感じる忙しさ、早く時間が過ぎ去ることは、充実している=良いことなのだろうか?
そんなこと言ったって社会人なら当たり前だろ、我慢しろという人がいっぱいいるだろう。じゃあそれで、僕たちは幸せな人生を送れるのか?誰かを幸せにし続けることができるだろうか?
心がモヤモヤする。