この海に居ること

人生ゲームの消化試合

実物主義と断捨離 二極論の程度問題

ここでいう実物主義ってのは僕が勝手に言ってるだけの言葉であり、デジタルではなく実物をできるだけ手に入れる、デジタルではなく実物をで体験する、的な意味で使う。だから、モノは必要だったり欲しいと思えば買って手元に置いておいた方がいいのではないか、という考え。謐然的にモノは増える。増えたモノは捨てるのではなく、大切に使うと同時に「本物が存在する」ことに価値を置く。一方断捨離というのはモノを捨てる、減らすといったイメージの強い言葉で、実物主義の対義語的な意味として考える。断捨離って言葉、2009年にヒットした本から広く使われだしてるのか、思ったより最近だ。断捨離の三文字にそれぞれ意味があって、断→新しく入るモノを断つ、捨→家にあるモノを捨てる、離→モノへの執着を辞める、的な意味らしい。

 

こういう相反する2つの考えに対しどちらがいいか、どちらが優れているのかということを考えるのはいいけどどっちかは良い、どっちかはダメという二極論はアテにならない。なぜなら、人によってどちらも正しくなりうるからだ。また、ある部分では実物主義的な考えが必要である部分に関しては断捨離的な考えが必要となる、と言った具合にその人が抱える全てを白黒付けるのは結構難しいのだ。白黒ではなく、グレーの選択と言われるやつだ。

なんでもかんでもよく考えず買ってしまい、家にモノが溢れているけど実際使うのはごくわずか、そして余ったモノはほとんど使わずやがて捨てられる、という人なら断捨離的な考えを取り入れて実践すべきかもしれない。でも、その人は「買う」という行為に重きを置いていて、それが最大の喜びになっているかもしれない。あるいは、他人からは想像もつかないまた別の理由があるかもしれない。

また、モノを捨てること、持たないことが快感になっている人は、自分の空間にモノがある・存在しているという豊かさから得られるインスピレーションや幸福感を、本来得られたはずなのにその機会を失っているかもしれない。

だから、どっちかじゃないといけないというわけではなく人それぞれなのである。趣味の〇〇集めには全力でするけど、服は必要最低限で極力持たないとか、服はたくさんの種類を持っておきたいから本や漫画は極力図書館とか漫喫あるいは電子書籍にする、といった考えも全然問題無いのである。そうなると、こういう程度問題はモノを持つか捨てるかという今回の話以外にも広げることができる。そして、そのすべての解答は「人それぞれ」なのである。結局いろんな問題はここに行き着くことが多い。

 

ここ数年、こういう考えをすることが多くて、結局人それぞれなら、自分が持った考えは自分には正しいしむしろ自分にしか正しくないんだなと思う。自分がこうした方がいいのでは、と思ったことはやって良いのだ。迷ってることに対し自分なりに考え自分で答えを探っていくことが大切なんだなって思った。そして、それを人生で繰り返すうちに、自分にとって適切な程度、距離の取り方っていうのが掴めてくるんじゃないかと思う。そこは自分にとって快適な世界に近いだろうし、すなわち幸せに繋がる。

人に聞いたり、ネットで調べればいくらでもいろんなことは教えてもらえるけど、そのすべてのは自分に適切かどうかわからない。相手にとっては正しくても自分のライフスタイルに落とし込むと100%そのままというわけにはいかなくてなることが多いと思う。でも、この程度問題ってのは本当に難しくて、まず自分の判断だけをアテにしているといつかは不安になるだろう。逆に自分はこれが正しい、こういうやり方が自分に合ってる!というのを幸運にも見つけたとすると、どうしても他人に対しそれを強要しがちになるし、なんで自分はできるのにこの人はできないのか、という思想が生まれる可能性もある。絶対白黒はっきりしたい人は世の中にいっぱいいるし、そういう人に中間択を提示してもきっとあまり良い顔しない。Twitterでフォローしてる人が、「人類に程度問題は難しすぎる」と呟いた人がいて本当にその通りだと思った。