この海に居ること

人生ゲームの消化試合

自分の道を持つ人、持たない人 あるいは失った人 〜アニメキングダムを視聴して〜

アニメキングダムの新シリーズが始まるということで、すでに原作は単行本派として全巻購入・複数回読み返していたがアニメは1回も見たことがなかったのでこの度シリーズ1から見た。キングダムは、中華統一を自分の道と語る秦国の王・嬴政と天下の大将軍を目指す少年・信の成長を描くアツい一級のエンターテイメントである。

シーズン2まで見終えた時、1番印象に残ったのは信が廉頗将軍と話しているときに、廉頗が天下の大将軍になるだけでは王騎将軍や廉頗将軍を越えられない、中華統一を成し遂げて初めて秦国六大将軍・趙国三大天を越えられると語り、信の目指すべき道が天下の大将軍になるだけではなく中華統一を統一するという嬴政と同じ道を歩むことを決めるシーンだ。キングダムを見ていると、つくづく自分の進むべき道・正しいと信じる道を持ちそれに向かって努力していくまぶしい信というキャラクターに憧れると同時に、自分の道を見失った自分が悲しくなりそして焦ってしまう。キングダムの中で自分の道を持つのは信だけではないが、本当にそれぞれのキャラクター達が輝かしい。

キングダムは一応史実に基づくものほぼフィクションだが、この現実世界でも自分の道を持ち、それを信じ、行動を続けられる人がたくさんいる。彼らは誰かに言われたからではなく、自分の中で「やらずにはいられない」ことを続けることで自分の道を進み、極め続ける。正しいと信じる自分の道持つことは、とても心強い物だとつくづく思う。その道に関することをし続けることに迷いは無いからだ。こんなことをしていて良いのだろうかとか、別の分野でそれなりに「何者か」になっていく知り合いと自分を比較し惨めになったりしないのではないか、と想像してしまう。自分の道をしっかり捉えているのであれば、あの人はこんなことをやってのけたのか、じゃあ自分はこの道もっとがんばって行こう、といった前向きな思考になりやすいと思う。自分の行動振り返って、後悔したり不安になったしにくいのでないか、と思う。

 

これらのことは趣味や仕事の話に通じやすいと思うが、自分の進む道というのはそれだけではないと思う。家族や支える人を持つのであれば、そのひとたちを守り抜くという道がある。何か形として残るものではないし何かの自分技術が目に見える形で向上するわけでもない。でも、その人たちに守られる人は、安心を得る。支えられている、この人と居て良いんだという安心感は、本当に素晴らしいものだと思う。自分の道が何であれ、それを進むことに関して寛容になれる社会が本当の意味で豊かな社会だと思う。こういう人たちは一見自分のやりたいことだけをやる利己主義に見えたとしても回り回って間接的に社会の役に立っていると思う。

 

じゃあ、自分の道を持たない人は?あるいは、それを持っていたが何かの理由で失った人は?彼らは存在する価値は無いのだろうか?何も生み出さないその日その日で生きていく人間は社会に必要無いのだろうか?このところよく考える。特にこの世界は資本主義社会であり、働いてお金を得ることに重きを置く社会に感じる。それ故に働かない人に対して当たりは強い。では、人間の価値は、働いているかどうか、稼ぎがいくらか、社会的な地位がどうか、将来何かすごいことをするのが確実な人間かどうか、こういったことだけで決まってしまうのだろうか。だとしたら、僕たちは何のために生きているのか?

 

最近、これらに対する1つの回答が浮かんでくる。もちろん完全ではないけれども。自分の道を持たない人あるいは失った人も、この先道を見つけるかもしれない。そういう人でも、誰かを安心させられるかもしれない。気付いていないだけで自分を支えてくれる人の心の支えになっているかもしれない。この先なるかもしれない。それにもともと、僕らはただ生まれてきただけである。やらなければいけないことなんてのは人間が勝手に思っているだけなんだ。だから、何も成し遂げず、何も道もなく、ただ孤独に死んでいったとしてもそれは別に何ら不思議でもないことなのだ。でも、死ぬにはこの世界は美しいもので溢れているんだよな…

 

こもりがちでモヤモヤする毎日である。