この海に居ること

人生ゲームの消化試合

自分で考える、自分の言葉で表現するとはなんなのか

好きな作品について調べる時、その作品に対するファンの声やレビューといったもの、あるいは実際に人とその作品について話した際に、自分ではなく他人の言葉に共感することは多々あるだろう。自分の言いたいことをうまく言ってくれたり、なんとなくぼんやり考えていたことが的確な言葉選びのもと文章にされていたら、「そうそう、そうだよね」と共感しやすい。では、次に自分が誰かに作品について発信する際に以前に外部から取り入れた意見を自分のものとして発信するとしたとき、果たしてそれは本当の意味で「自分の感想・考え」と言えるのだろうか。これもまた最近悩むところである。全てを誰にも干渉されず自身で考えた言葉で表現・発信することこそが「正しい」のか、あるいはその方がより価値があるのかといった疑問もある。義務でもなんでもないので、必ずしも自分の言葉で全てを語る必要もないが。

 

自分の言葉というのを意識するのは一体どういう心理が働いているのだろう。自分は他と違うんだという承認欲求だろうか。でも、他人の使うしっくりきた表現を自分が使うことは、自分が考えで表現しているのではなく、他人に影響を受けて「表現させられている」ようにも感じる。言っているのではなく、言わされている、というような感じもある。例えば、誰かがある作品に対して「この作品はスパイスの効いていないカレーのようだ」と表現したとする。それを見た自分は、なんて上手いことを言うのだ、自分が言いたかったのはまさにこういうことだ、と感じたとする。そして、誰かに作品の感想を言う際に「スパイスの効いていないカレー」という表現を使ったとする。となると、それは自分が考えた表現ではなく、他人の表現を借りた、あるいは他人の感想を自分の中にそのまま取り込んだ、となる。取り込んだ際に、その表現を自分なりに噛み砕いて取り入れ自分の言葉も含めて表現したのならそれは本当の意味の「自分の表現」に近づくかもしれない。「この作品のこういう設定は斬新で良いものがあるのに、あんまりそれが生きていないけど、作品全体としては万人受けしやすいしとっつきやすいから、スパイスの効いていないカレーみたいだね」と表現すれば、少なくとも他人の表現の丸パクリ(思考停止)ではなくなるのではないか、と思う。そして、このように他人の評価・表現をよく考えずそのまま自分に落とし込み、他人の価値観・他人の言葉で生きている人って結構いるんじゃないかなあ、とも思う。つまり、自分の意見を述べているのようで実は他人の言葉をそのまま連ねているだけの人。そして、それは自分で考えた言葉や表現ではないのに、まるで全く自分のものであるという風に発信する人。良くも悪くも。

 

著名な人の発信した言葉に、ファンだからと盲目的にそれを信じてしまうことって結構あると思う。僕もある。でも、その人が言うことって本当のことかわからない。間違っているかもしれない。そう、人は誰でも間違えるし、尊敬する人だって時には過ちを犯すのだ。「この人の言うことは全て正しい」ということはないのだ。

 

しかし、僕たちはたった1人で今日まで生きてきたわけではない。いろんな人と関わり、いろんな人が作った作品に触れ、いろんな考えに出会い、いろんな言葉に出会っている。影響を受けないわけがない。となると、自分自身で考えだと思ったことは、だいたい親の影響か好きな人の影響を受けており、どうしてもそれら寄りのものになると思う。みんなが誰かに影響されて表現をしているのだ。となると、自分で考え自分の言葉で表現するというのは、自分の外部から影響を受けたものを自分の中で「なぜ好きになったのか」「なぜ惹かれるのか」とかいった要素として分解し、それをまた自分で再構築して自分の外へ発信するということなのだろうか。でも書いてて思ったけど、自分で再構築するという段階でもその判断基準はやはり外部からの影響を受けているから、真のオリジナリティというのは存在しないのかもしれない。なんじゃこの結論…。