この海に居ること

人生ゲームの消化試合

学校は誰のものなのか、子どもは大人の用意した選択肢しか受け入れられないのか

大人になって、僕は大卒だけど、それも卒業してしばらくしてから思うことがある。世の中というか、社会の仕組みとかルールって大人のためにあるものが多いように感じる。法律は勉強してきてないので子供や未成年の権利がどのくらいまで保障されているか実際のところはわからないが、でも肌で感じる空気や雰囲気、いわゆる押しつけられたり何かと判断基準にされがちな「常識」とされるものは、子どもの都合は無視され大人の都合に合わせて形成されているように感じる。

 

とりわけ顕著なのは学校である。小学校なんかは、けっこう子どもの発達状況はまちまちだと思うし、小学1年生としてひとクラスにまとめられたとしても子どもの得意不得意の差が大きいと思う。授業を楽しくやれる子、そうでない子、勉強は楽しいけどずっと座ってられない子、勉強は嫌いではないが今は外で駆け回りたい子、本当にいろいろだと思う。なぜ、現在のような教育体制になっているかといえば、1人1人に合わせて勉強を教えたり、サポートをするよりはまとめて同時進行でやった方が効率がいいからである。そこには子ども都合は存在しない。でも、本当に生徒1人1人を伸ばすのであれば1人1人ごとに異なる勉強法が必要である。また、彼らには宿題が課せられる。宿題を望む生徒はごくわずかであると思う。これも、大人側の都合で決められたことであり生徒が主体的の宿題をやってくるわけではない。家に帰れば親にも宿題宿題と言われ、そんなことよりも遊びたいのが子どもだろう。親は子どもに宿題をやらせ、勉強にしろ習い事にしろ何かといい成績を子どもに望む。子どもの願いや方向性と親のそれがマッチすることは稀だろう。親は自分を棚に上げて少しでも自分の子どもが「良くなるように」あれこれ言ってくる。子どもも敏感なのでそういう親の気持ちを汲んでしまい、本心とは違っても期待に応えなきゃいけないと思ってしまう。

運動会だって、競技種目が生徒が決めることはほとんどないだろう。決められた数少ない種目で、できる・できないを測られ、そして親はこぞって我が子を撮影する。保護者向けに体育館で運動会の様子を中継する学校もあるらしい。親は自分の子どもを見るのに必死なのである。では子どもはどうなのか。わからない。それぞれいろんな思いがあるだろう。僕は、授業参観とかも親が来るとなんだか恥ずかしかったので正直あまり親に来て欲しくはなかった。そういう子もいるだろう。

中学校の体育祭とかだと、応援団とかも本格的になって、大縄とかムカデ競争みたいなのをやらされた。競技としては面白みを感じなかったけど、「クラス一丸となって」「仲間と共に」「乗り越える」的なのが称賛される。こういう雰囲気や概念はどこからもたらされるのか。教員(大人)である。生徒あらかじめ用意されたプログラムに沿って、「こうやるのが正解」という無言の圧力をかけられる。仮に、大縄とかで学年一になったとして感動があったとしても、なんというかそれはあらかじめ大人によって用意されたものであって、生徒が作り上げたものではないように感じるのだ。部活やクラスだって、人間関係が崩壊しているところを生徒の親身になって対応できる教員は少ないし(これは教員個人が悪い場合もあるけど学校教員にいろんな役割を押し付け多忙にさせている体制にも責任がある)、そうした中でひっそりと傷つきトラウマを抱えてしまう生徒も少なくはないと思う。中学の時、野球部の顧問が生徒に暴言を吐きまくっていた。それでも、ひと昔前に比べればまだ可愛いもんらしい。じゃあ、それを言われる生徒の気持ちはどうなるのか。会社の先輩で野球部の人がいて、「あの時めちゃくちゃに言われまくったから今の会社で多少怒られてもそこまで響かない」ということを言っていた。まあ確かにそうかもしれない。世で体育会系がもてはやされるのはいろんなことに耐性がある(ように見える)ってのもあるだろう。でも本当に、それって良いことなのだろうか。人と人が関わる上で絶対に完璧な意思疎通は無理だからどこかで誰かが理不尽を被るどうしようも無い社会だが、それに黙って文句も言わずに耐えることが正しいのだろうか?

 

学校では何かと忍耐に通じる訓練的なことをさせられる。子どもの意思に関係なく。まだ社会もよく知らない子どもが、親・先生というわずかしかない大人との接点の中で、いろんな理想を押し付けれる。時には、その理想期待に応えられず怒られたりもする。なんというか、いろんなことを抑圧するんじゃなくて、子どもたちを伸び伸びと育てられる社会の仕組みってないんだろうか。子どもはいつだって大人を見ている。その大人を作る社会を構成しているのは紛れもない僕たちなんだ。こんな社会でごめんって思う。