この海に居ること

人生ゲームの消化試合

歳を重ねるごとに他人と趣味が合わなくなる

当然だ。人は生きていくうちにそれぞれの趣味を進んでいく。人それぞれ好きなものや時間をかける対象が違うし、それは歳を重ねるごとに大きく差が開いていく。そうなってくると、会話をする時にたまたま近い分野の趣味があれば話も盛り上がるだろうが、そういうのはなかなかない。特に、相手と年齢差があると余計にだ。世代ごとに熱中しやすいものというのも大雑把ではあるが存在するし、世代ごとの「共通言語」的な話題も存在する。こういう話は、「音楽を聴くことが好き」「いろんなジャンルを聴く」と言ってる人がいて、自分の好きなバンドの曲を知っていても自分と熱意の差があるため結局音楽の話もしづらい、ということが往々にあったことから考えるようになった。自分はそのバンドに入れ込んでいてだいたいどの曲も知っていても、相手は代表曲くらいしか聴いていなかったり、フェスで見る程度、というのも全然ある。

漫画が好きと言っても、少年ジャンプ系が好きだったり青年誌の方が好きだったりとで結構隔たりを感じる。漫画好きなら今話題のこれ読んでるかな?と持ちかけても読んでいないことも往々にしてある。そう、こういう話はあらゆる分野で成立すると思う。(演繹法)

 

じゃあ僕らは普段どうやって他人と会話をしているか。それは所属する組織の内輪ネタが多いんじゃないかな、と思う。所属する組織内で趣味が合う人がいればその人が曲者じゃなければその人と居ることが多くなると思うけど、そうでないなんてことない人とは、内輪ネタになりがちだ。「自分も相手もある程度予備知識が等しく」「同じ感覚を共有しやすく」「だいたいの人とそれなりに話せること」について内輪ネタがとても強い。ただ、この記事で述べたいのはその先の話である。学校の友達なんかが顕著だけど、すごく中が良かった子と進路が別々になったとする。そうなると、卒業後会っても話せることってそんなにないのだ。趣味が共通していない限り。同じ場を共有しているうちには他愛もないことも話せるが、それぞれが違う場所にいるとそれぞれの場所での「雰囲気」に浸かっているため、それぞれの組織(場)で通じる冗談が通じにくい。いちいち説明すると会話のテンポも悪くなるし、話の面白みも薄れてしまう。趣味がそこまで等しくなければ、過去の話をするか、近況を報告し合うだけになる。でも、過去の話は過去の時点でだいたい語り尽くされているのでそう発展することもないからひと通り振り返ったらもう話すことはない。久々にあった初回のみに使えるネタである。となると、度々会って話すことは近況報告となるが、相手が自分にとってよほど興味深いことをしていない限り、「普通」の話を聞いてもふーんそっかあ、となって終わるのである。そして、自分としては話したいことといえば最近ハマってることとか趣味の進捗とかになるんだろうけど、相手が同じ趣味を持っていなければこの話もしなくなる。しても反応薄いし相手と自分の熱量に差があるから話題が不完全燃焼に終わる。

 

そして、趣味が合う人は、歳を重ねるほど自分の周り・所属する組織や場には多くはない(ネット世界は除く)。経験を重ね、当たり障りのない会話が多くなる。本当に話したいことは他にもあるけどそれは抑えておくことが多くなる。歳を重ねるごとに趣味の合う人、自分が熱量を持って取り組んでいることに関して話せる人は周りから減ってくる。でも、そこで共通の趣味を持てる友人がいたらどうだろう。そういう人は1人でもいたら世界は大きく変わる。1人でもいい。重要なのは友人の数ではなく質である。でも、ここで言いたいのは世間話しかしない人間関係を続けることに価値がないと言っているのではない。そこで親しくなった人と、今後どういう関係になっていくかはわからない。その人が自分と共通の趣味に目覚めるかもしれない。

 

人との出会いは奇跡だと思う。学校や職場で同じになった人も、自分がそこを卒業したり辞めたりすればよほど仲良くなかったしない限り死ぬまで会うことはない。そんな中で、分かり合える人と出会えたらどれほど素晴らしいことだろう。友人にしろ、先輩にしろ、あるいは恋人など。きっと僕らは、わかり合えないかもしれないけど、自分をわかってくれる人がいたらとても安心するだろう。そういうのの積み重ねが、人生の上での幸せに繋がると思う。